民族主義的自画自賛に終始した共産党史論
――党創立80周年の不破演説批判

2、ソ連覇権主義批判のご都合主義

 不破演説は続いて、戦後の世界が直面したもうひとつの重大問題としてソ連覇権主義の問題を取り上げている。この演説の中で不破氏は、日本共産党がいかにソ連覇権主義と戦後一貫して戦ってきたかを得々と述べている。だがその言説は、自分たちにとって都合の悪い多くの事実を意識的に欠落させたものでしかない。
 たとえば、不破氏はこう述べている。

 「私たちは、日本にたいする干渉に反撃しただけでなく、各国の主権と国際的な平和の秩序を破壊するソ連の態度にたいしては、たとえば、1968年のチェコスロバキア侵略の場合でも、あるいは1979年のアフガニスタン侵略の場合でも、社会主義の立場とは絶対に両立できないものとして、徹底的にこれを批判しました」。

 だが、1956年のハンガリー動乱のさいに当時の宮本書記長を筆頭にソ連の軍事介入を断固支持した事実はどうなるのか? あるいは、ユーゴ共産党に対する修正主義規定を断固支持し、ユーゴ修正主義に弱腰のソ連修正主義を中国共産党とともに最も強く批判したのはどこの党なのか? チェコスロバキアへのソ連軍侵攻に反対したのは事実だが、当時の「プラハの春」を修正主義的誤りとして規定していた事実についてはどうなるのか?
 さらに、不破氏の語る党の歴史は、1979年のアフガニスタン侵略批判からいっきに1991年のソ連崩壊に飛んでいる。

 「1991年に、このソ連共産党が崩壊を遂げた時、わが党はこれを『歴史的な巨悪の崩壊』として歓迎する声明を発表しました。この声明は、その時だけの印象によるものではなく、60年代からの、こういう闘争に裏付けられたわれわれの実感を映したものだったのであります」。

 1979年から1991年まで12年もの長い期間が存在する。その間に、「社会主義の復元力」論を展開して、現存「社会主義」諸国の「優位性」を『赤旗』でキャンペーンした事実はどうなるのか? 「社会主義完全変質論」を最も強く批判してきた党はどこなのか? ソ連共産党のかつての書記長チェルネンコを「レーニンに次ぐ平和の戦士」として天まで持ち上げたことはどうなるのか? 東欧の中で最も残酷な独裁体制を強いていたルーマニアのチャウシェスク政権を美化し、科学的社会主義を創造的に適用していると絶賛したのはいったいどこの党なのか? これらの事実はいったいどうなるのか? 
 自分にとって都合の悪いことはすべて忘れる癖のある不破同志のために、不破氏自身が行なった第16回大会報告(1982年)からひとつだけ引用しておこう。

 「社会主義諸大国の大国主義、覇権主義の誤りを問題にする場合、私たちは、科学的社会主義者として、つぎの2つの見地を原則的な誤りとしてしりぞけるものです。
 一つは、社会主義大国が民族自決権の侵犯などの誤りをおかすことはありえないとする『社会主義無謬論』です。……
 もう一つは、あれこれの社会主義大国が覇権主義の重大な誤りを犯しているということで、その国はもはや社会主義国ではなくなったとか、その存在は世界史の上でいかなる積極的な役割も果たさなくなったとかの結論をひきだす、いわゆる『社会主義完全変質論』です。16年前、宮本委員長を団長とするわが党代表団が、中国で毛沢東その他と会談したさい、ソ連の評価をめぐって、もっともするどい論争点の一つとなったのが、この問題でした。わが党は、社会主義大国の覇権主義にたいして、世界の共産主義運動のなかでも、これをもっともきびしく批判し、もっとも原則的にこれとたたかっている党の一つですが、その誤りがどんなに重大なものであっても、指導部の対外政策上などの誤りを理由に、その国家や社会が社会主義でなくなったとするのは、『社会主義無謬論を裏返しにした、根本的な誤りです」(『前衛臨時増刊 日本共産党第16回大会特集』、92頁)。
 このように、不破氏は、「社会主義無謬論」に対する批判とともに、「社会主義完全変質論」に対する闘いを並列させて、ともに日本共産党の大きな功績として押し出している。そして、この問題をめぐって、中国共産党(当時、ソ連社会主義完全変質論に立っていた)と激しく論争したことを自慢げに述べている。ところが、それから20年後の創立80周年記念演説では、この2つのうち1つが完全に忘れ去られ、あたかも日本共産党が覇権主義批判だけをしてきたかのように述べ、ソ連社会主義完全変質論に立った「ソ連崩壊歓迎論」をその証拠として持ち出しているのである。このような歴史偽造こそ、まさに日本共産党が罵ってきた「ソ連型社会主義」の本質的側面ではないのか?

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