不破講演「レーニンと市場経済」によせて

レーニンの新経済政策

 ロシア革命後の干渉戦争、内戦にほぼ勝利した後、革命ロシアは極めて深刻な食糧危機に見舞われる。このとき、ネップと呼ばれる政策で導入されたことは、主なものを具体的にあげれば次のようなものである。

  • 食料税の導入。農民の負担はかつての戦時共産主義時代の割り当て徴発のほぼ半分になる。
  • 納税後の余剰は農民が買い手を選んで自由に処分できる。
  • 土地の賃借、農業労働者の雇用ができる。
  • 重工業、輸送、銀行および外国貿易は引き続き国有化。直接政府の統制下におく。
  • 小規模企業の非国有化。

 不破氏はこれらの一連の政策を「市場経済」と表現しているのであるが、細かい概念規定にこだわらなければ「市場経済の導入」であり、小規模な私的資本主義部門、小商品生産部門など認めるわけであるから、資本主義的要素の導入と考えてよいであろう。
 ただし、不破氏は、革命が成功したとき、レーニンの頭の中に「市場経済の活用という考えはひとかけらも」なかったとしているが、これについては、何の根拠も引用も示していないのでわからないが、ネップの原型となったと思われる「思考」(たとえば『現在の主な任務――「左翼」的な児戯と小ブルジョア性について』1918年行の小冊子)は革命の翌年1918年にみられる。
 革命の主力部隊となった部分に「貧困をものともしないほどの教条主義的なまでの革命的雰囲気」が横溢していた。レーニンがネップの導入にあたってこれらの人々に懇々と話しかけるように、ネップについて理解を求めることに心血を注いだ様子は『レーニン全集』第32巻などから容易に読みとることができる。不破氏の述べるところについては若干の疑問はあるものの詳細にこだわらなければ大筋はそういうところであろう。
 革命後のソ連や中国において、経済活動における最初の大きな障壁は「本源的」資本の決定的な不足、新しい生産技術の欠如であった。
 かつて欧米の資本主義は古くから海外侵略を行ない、これが資本蓄積の重要な一部分を構成した。ソ連では、ロシア時代からの主要な産業であった農業に依存し、後には豊かな鉱産資源の輸出などにも頼ったが、全体としては厳しい帝国主義の包囲の中にあったから外国資本の導入は思うに任せなかった。
 ソ連にしても中国にしても、革命を成し遂げた国々は、いずれも資本主義がまともに発達してはおらず、社会主義の物質的諸条件が極めて未成熟であった。あわせてアメリカを先頭とする帝国主義陣営がなお世界に君臨するという条件の下で社会主義建設を行なわなければならなかった。
 歴史は、科学的社会主義の創設者マルクスらが予想さえしなかった形で進行してきた。しかし、歴史はこのように進んできたのであり、創設者たちの思考の中に指針を見いだすことが困難な事態に直面してレーニンが編み出したネップの路線は、獲得した労働者と農民の権力を維持し、資本主義的要素を取り入れながら社会主義社会に接近していくという矛盾した契機を内包するものであった。
 不破氏がいうところの「市場経済」という言葉が包含する「資本主義的要素」の導入は、少なくともこれらの国々にとっては、取りうる進路の重要な選択肢の一つであった。この道は困難を極める道であろうが、これらの国々においては、おそらくはこの道を通じてしか社会主義へ接近することはできないであろう。しかし、この道は「獲得した労働者と農民の権力」の崩壊、変質の危険をも内包しているのである。

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