不破講演「レーニンと市場経済」によせて

市場経済の効用

 市場経済の効用、言いかえれば、どうして社会主義経済において市場経済を導入しなければならないかについて、不破氏があげているのは「需要と供給の調節」「労働の生産性や企業活動の評価」などである。
 不破氏のいう「市場経済」が何を意味するかは必ずしも定かではないが、不破氏が述べる市場経済の効用について検討してみる。

 ① 需要と供給の調節
 不破氏は「たとえば、需要と供給の調節という作用です」という。不破氏によれば「靴の量がどれほど必要であるかは市場の作用がなくても計算できるが、人々を満足させるタイプや色合いまではどんなにコンピューターが発達しようが計算では絶対に答えが出ない」という。しかし、現在、高度に発達した資本主義国においては、コンビニや各種量販店ではきめ細かく商品管理を行っており、売れた商品はバーコードなどによって端末に入力され、瞬時にホストコンピューターに入力される。これらのデーターをもとに企業ごとに商品生産が計画的に行なわれている。
 現代日本などではこれが独立した私的生産者によって行なわれているが、これらの技術的諸条件は、むしろ計画経済においてはなお合理的に生産活動が行なわれる可能性を示唆している。その意味ではかつてソ連で行なわれていた「計画経済」の時代とは質的に異なるほど「計画経済」の高い可能性が存在する時代となっているのであるから、不破氏が市場経済の第一の効用としてあげた「需要と供給の調節作用」は、はたして市場経済にのみ固有なものであって、計画経済とはまったく相いれないものであろうか。
 不破氏が思い描く計画経済は、この「需要と供給の調節作用」やこれに基づく消費動向の予測などさえも本質的に排除するほど柔軟性に欠けたものだということになる。マルクス主義の創設者たちが与えた遠い未来の共産主義社会における話は別として、社会主義社会へ移行しようとする社会では、既存の物質的諸条件の中で社会主義建設を行なわなければならない。そうすると計画経済を基本とする社会においても、生産物が生産者から消費者の手に渡るまでの流通経路で、どのような生産物がどれほど求められているか、ということを把握することは必要なことであろう。したがって、予測不可能なほど遠い未来のことは別として、計画経済においても計画が具体性、科学性を保持するためには「需要と供給」の動向の把握は不可欠であろう。
 また、ソ連流の計画経済の破綻について語りながら市場経済の効用を説くのであれば「市場経済における価格の調整機能」についても触れるのが当然と思われるが、不破氏は不思議なことにこの点についてはまったく触れていない。私などは不破氏がこれについてどのような回答を与えるのか期待していたのだが…。

 ② 労働の生産性
 不破氏は市場経済の効用として2つめに「労働の生産性や企業活動の評価」をあげている。不破氏は例として、「シャンデリアや家具の製造で評価の基準が重さであった」というフルシチョフ時代の話を引用している。不破氏が笑い話風に紹介したこれらの例は、社会主義経済、計画経済に必然的に付随するものであろうか。ソ連の計画経済についてはよく似た話をしばしば聞くが、これは「スターリン流計画経済における話」と考える方が適当であろう。
 スターリンの覇権が確立して間もなく、党、国家、企業の幹部は急速に腐敗、堕落し、特権階級化していった。特権階級として特化したこれらの幹部・官僚は社会の発展や人々の生活の向上に関心を失い、上級幹部に取り入ることによって自らの保身、栄達にのみ腐心するようになる。上級機関が下級機関や企業を評価するにあたって、重視されるのは「あらゆる具体的な事象を捨象した数字」だけということになる。支配階級がその社会の発展や人々の生活の向上に関心を持たなくなると、その社会は急速に衰えていく。「挫折したソ連流の計画経済」なるものを評価するときには、このような背景を考慮に入れる必要がある。
 余談であるが、わが党の拡大運動にもほとんど同じことがいえる。党員を何人、日刊紙を何部、日曜版を何部増やしたかという数字のみが追求される。議員が役所の幹部に義理で取ってもらった機関紙も1部であり、職場の厳しいたたかいの中で機関紙を読んでくれるようになったのも同じ1部でしかない。党員拡大を厳しく追及すれば、党地方幹部などは、活動するようになる見通しさえない病床の老いた親をさえ入党させるようになるであろう。数字はものごとを把握する重要な指標ではあるが、数字のみを追求すればこのような事態は避けられなくなる。不破氏においては、みずからが笑い話として持ち出した「ソ連のシャンデリアや家具の話し」と大差ないことが、みずからが代表する党で行なわれていることを知ることはないのかもしれない。
 労働の生産性は労働意欲の問題だけではないが、労働の生産性を「労働者が働かない」という意味に限定すれば、市場経済の効用は抜群である。資本主義社会では、企業幹部や高級官僚が堕落しようが、腐敗しようが、底辺の労働者には「働かなければ生きていけない」という厳しい原理が働く。そして、底辺の労働者には厳しい労働規律が要求され、これに従わなければ賃金を受け取ることができない。
 ソ連時代においても、労働規律の引き締めや労働意欲を刺激する措置がたびたびとられた。資本主義顔負けの出来高払い制さえ導入されたこともあった。しかし、生産性が大幅に向上することはなかったし、事態が基本的に改善されることもなかった。ソ連などにおける労働の生産性の向上は、労働規律や労働密度の強化など労働する側の問題というよりも、むしろ、労働の組織化、生産技術の革新、資源の配分などによるところが大きいといわねばならない。したがって、これは単に「市場経済の効用に期待する」ことで解決されるほど単純な問題ではなく、政治体制、経済活動全般の問題である。
 今日、「社会主義を目ざす国々」において「生産性の向上」を期待して市場経済を導入すれば、どのような事態が生じるであろうか。トロツキーは「商品流通を基盤とした労働生産性の向上は同時に不平等の増大を意味する。指導層の富裕の増大は大衆の生活水準の上昇を大きくうわまわりはじめる。国家の富の増大に平行して新たな社会的階層分化の過程が進行する」(『裏切られた革命』p.152、藤井一行訳、岩波文庫版。訳者によれば原題は『ソ連とは何か、そしてソ連はどこへ行きつつあるか?』)と述べている。

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