不破史観の確立と発展――『日本共産党の80年』の批判的検討(下)

24、1980年代後半(2)――チャウシェスクとルーマニア問題

 この時期の大きなトピックスの中で同じく都合の悪いものは、1987年4月に発表された「宮本・チャウシェスク共同宣言」である。当時、すでにチャウシェスク・ルーマニア共産党書記長は残虐な独裁者として国際的にかなり知られており、ルーマニアの国内体制が東欧の中でも最悪の部類に属することは、しばしば話題にのぼっていた。ルーマニアの赤旗特派員もそのことを党指導部に伝えていた。にもかかわらず、ルーマニアの政権が民衆によって打倒されチャウシェスク夫妻が銃殺されるわずか2年半前に、わが党の宮本議長(当時)はチャウシェスクと仲よく共同宣言を発表したのである。しかも、宮本議長は当時、記者会見などでルーマニアを自主独立の社会主義国で平和愛好国であるとして持ち上げることまでやった。たとえば、この共同宣言を発表したときの記者会見で宮本氏は次のように述べている。

 「ルーマニアというのは、社会主義国で、平和愛好国なんです。核兵器も置いていないし、外国軍隊もいません」(『日本共産党国際問題重要論文集』第17巻、294頁)

 ルーマニア国内の深刻な問題を本当に理解していたなら、このようなセリフは出てこなかっただろう。こうした事実は、共産党が日ごろ自慢している「先見の明」とはほど遠いし、共産党のいう「自主独立路線」の危うさをも暴露するものであった。たしかにルーマニアは「自主独立」であった。しかし、その「自主独立」なるものは、飢餓輸出による対外債務の返済をはじめとする、国内における残虐な搾取と抑圧の体制に立脚したものであった。ちょうど、かつての中国や北朝鮮の自立路線が、もっとも多くの経済的混乱と破壊と抑圧を引き起こしたのと似ている。
 『70年史』は、すでにルーマニアの体制が民衆によって打倒された後に発行されたが、この「宮本・チャウシェスク共同宣言」についてもきちんと触れている。『70年史』は、1頁近くにわたって詳しくこの共同宣言を紹介するとともに、次のような言い訳を記している。

 「共同宣言は、重要な意見の相違があっても、その党が日本共産党と日本の民主運動にたいする干渉・破壊活動をおこなわないかぎり、国際的な大義のかかった課題での一致点での共同という第10回党大会できめた、外国の共産党と関係をむすぶ基準にもとづいたものであり、ルーマニアの党の路線全体への支持や内政問題への肯定を意味するものでないことは当然であった」(『70年史』下、271~272頁)。

 説得力のあまりない言い訳つきとはいえ、この共同宣言についてちゃんと記述されていることは一定評価しうるだろう。しかし、過去の誤りを恐れず直視する共産党なら、本来、この時の日本共産党指導部の認識の限界を率直に指摘し、今後の教訓とするべきであった。では、『80年史』はこの共同宣言についてどう評価しているだろうか? 『80年史』は、他の多くの都合の悪い事実にたいしてと同様、そもそもこの事実について歴史から削除することによってこの問題を解決した。日本共産党は、世界のどの共産党よりもルーマニア共産党と親密な関係にあり、多くの点で意見が一致しているとされてきた。1987年の共同宣言のさいの記者会見で、宮本氏は両党の親密な関係について次のように得々と語っている。

 「それから、なぜ、こういうことが可能なのかということは、これは、みなさん方にお配りした資料にもあることですが、両党の71年以後今日までの期間に往来が40回近くあるんです。そして、両党の見解はこの間でも一致しているか、あるいは非常に近いということが特徴です」(『日本共産党国際問題重要論文集』第17巻、293頁)。

 日本共産党とルーマニア共産党との密接な友好関係は、チャウシェスク政権が打倒される1989年まで基本的には続いている。1987年の共同宣言から2年たった1989年1月20日、日本共産党中央委員会とルーマニア共産党中央委員会は再び共同文書を発表し、87年の共同宣言の意義を確認するとともに、新思考路線に反対する立場を表明した。これは、ルーマニアを訪問した金子満広書記局長が宮本顕治の親書をチャウシェスクに渡し、その親書に対する賛意をチャウシェスクが述べることで実現するにいたったものである。この事実についても、『70年史』はさりげなくだが、いちおう触れている(『70年史』下、337頁)。しかし、『80年史』ではもちろん、この事実も抹殺されている。
 こうして、『80年史』は交流の歴史をすべて完全に抹殺し、最後の、チャウシェスク政権の打倒とそれを日本共産党が歓迎した事実だけが紹介されるようになったのである。ちなみに、『70年史』においては、チャウシェスク政権崩壊後、ルーマニア問題をめぐって、党内外から、ルーマニアのチャウシェスク政権に対する以前の無批判的で親密な姿勢に対する批判が多数寄せられたことを紹介し、それらの批判が不当な反共攻撃であり、党が一連の論文を通じて断固反撃して粉砕したことなどが述べられているが(『70年史』下、369~370頁)、『80年史』ではそのくだりは完全に削除されている。そもそもチャウシェスクとの蜜月時代の交流の記録がまるごと削除されているのだから、この時期をめぐる論争についても削除しなければならなかったのであろう。

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