1985年にソ連共産党の書記長となったゴルバチョフは、ソ連共産党第27回党大会の開催された1986年から「ペレストロイカ」や「新しい思考」論を唱えはじめ、その路線に沿った一連の改革を実行しはじめた。この新しい路線は、一方では、しだいに行き詰りつつあったソヴィエト官僚体制に対する民衆の不満と抵抗を反映するものであり、この行き詰まりを支配官僚の地位を維持したまま漸次的に改良しようとする試みであり、他方では、フルシチョフ時代の対米協調路線と同じく、アメリカ帝国主義と資本主義世界市場に対する順応と迎合を表現するものであった。
日本共産党指導部は当初、このペレストロイカ路線について、その最終的評価は未来に属するものとしながらも、「レーニンの精神への回帰」、社会主義の民主主義的改革につながりうるものとしてかなり好意的にみていたし、それに対する期待を繰り返し表明していた。たとえば、1987年11月に開催された第18回党大会の冒頭発言において、宮本議長は次のように述べている。
「ソ連共産党第27回大会いらい、ゴルバチョフ書記長の指導下で展開されているペレストロイカ――建て直しについて、私はこれまでいろんな機会に好意と期待をもってみまもる、とくに国際分野での実現を期待するとのべてきました。レーニンの生存中を除けば、ソ連邦の歴史で、社会主義の精神での自己点検と建て直しを、このように本格的に課題としているのは、はじめてでしょう。ここで正しい前進と成功がなされるならば、よりひろく社会主義の役割が発揮されるでしょう」(『前衛臨時増刊 日本共産党第18回大会特集』、22~23頁)。
このように宮本議長はペレストロイカに対して日本共産党が好意と期待を持ってみていたことをはっきりと証言している。この同じ冒頭発言で、世界の一体説を批判し核兵器の廃絶には資本主義国における人民大衆のたたかいが必要であることを述べつつ、次のように述べている。
「ロシア革命70周年に際してのゴルバチョフ書記長の演説のなかで、ペレストロイカがレーニンの理念の継続として強調されています。それが、科学的社会主義の精神を今日の時代に内外に豊かに発揮するということであるならば、私がここで強調した国際問題での様ざまなゆがみにたいして、躊躇なく勇気ある光が当てられるべきであると期待しても、不自然ではないでしょう」(同前、24頁)。
ゴルバチョフの誤った「新思考」の代表的例としてその後批判されることになるロシア革命70周年のゴルバチョフ演説についてさえ、宮本氏はこのように好意的に紹介しているのである。こうした好意的態度は、1988年1月1日付『赤旗』の新春インタビューではいっそうはっきりしている。ここでは、70周年演説と同じく、後に根本的に誤った協調主義的見解を唱えたものとして糾弾されることになるゴルバチョフの著作『ペレストロイカ』にさえ好意的に言及されていることに注目していただきたい。
「河邑 いまの問題にかんして、党大会の場で宮本議長は、ソ連のペレストロイカにふれられ、ペレストロイカがレーニンの初心にかえるということを掲げるのならば、反共野党などにたいする態度をレーニンの初心からどう律するのかという問題を提起されましたね。
宮本 私も、その後、米ソ首脳会談についての文献も読みました。とくにゴルバチョフ書記長が書き下ろした『ペレストロイカ』という本も読みました。彼は、レーニンの精神でソ連の体制を立て直すことを本気で考えている。熱心なんですね。くりかえし、くりかえし、レーニンの精神ということを言っています。そういう点では私は、あの熱意と馬力が正しく生きることを非常に希望しているわけです。
一方、ゴルバチョフ書記長は大変困難であるということも率直に言っています。つまり、社会主義国だけに最小限の生活保障があるし、大衆は社会主義がいいと思ってきたので、いろんな停滞――社会主義ほんらいの可能性を発展させていないとか、社会主義らしくないことにたいして、いまのペレストロイカのよびかけが言うような敏感さをみんながもっているわけではない。あるいは幹部のなかでは、いままでもっていた特権を放したくないという惰性もあるというわけです。それらともたたかい、全体としてとても真剣です。
同時に、私が大会でのべたように、INF条約のように、従来は核軍備管理だったものが、初めて核軍縮、種類がいくつにしろこの分野では完全廃絶という合意に達したというのは、ペレストロイカの精神が国際外交でも発揮したということの表れだと思います。
2000年までに核兵器を廃絶するというゴルバチョフ書記長の有名な86年1月の声明にしても、われわれは一定の意見をもっているけれども、ともかく期限を切って核兵器を廃絶せよということを国際政治の具体的課題として言いだしたことは、画期的なことです。国際政治においてもそういう真剣さがあるということはみなくてはならないと思います」(『日本共産党国際問題重要論文集』第18巻、35~36頁)。
この『ペレストロイカ』という著作ではハンガリー事件やチェコ事件、アフガン事件についても肯定されており、そのことは後に新思考路線が古臭い覇権主義にもとづいていることの証拠とされ、過去の党史においてもそう書かれていた(「この点でもゴルバチョフの覇権主義への無反省ぶりはきわだっていた」、『70年史』下、295頁)。しかし、この1988年の新春インタビューでは、この決定的な問題については、ごく短く、しかも驚くほど弁護調で触れられているだけである。
「ただ、過去のソ連が外国に軍事的に介入した国際的な諸事件でのいろいろな問題については、さりげなく表面的に批判的でなくふれられており、いいたくない、はっきりいいにくい面もあるのでしょう」(『日本共産党国際問題重要論文集』第18巻、36頁)。
そして、このマイナス面を相殺するかのように、ただちに次のようにつけ加えられている。
「しかし、ソ連は真理の独占者ではないということを第27回党大会でいいました。ソ連絶対論というものを、みずから肯定しなかったという点も、画期的なことです。それまでは、みなさんも覚えていらっしゃると思いますが、残念ながら、日本共産党にたいするフルシチョフの干渉があっていらい、われわれは重大問題で、たとえばチェコスロバキア侵略とか、アフガニスタン軍事介入とか、ソ連の国際外交にたいして批判的にならざるをえなかったわけです。そういうとき、ソ連側の報道からよくきいたのは、“日本共産党は、周知の特殊の立場を表明した”といういい分です。日本共産党は、いろいろなところで、自分の見解を表明してきましたが、それを“特殊な立場”で片づけられたわけですね。
タス通信などにはいまでもそれがあります。さきの党大会についての報道で『大会ではいくつかの国際問題と世界の共産主義運動の問題についての日本共産党指導部の特殊な立場がのべられた』と、タスは相変わらず書きました。察するに、国際政治の問題について、まだソ連の見地を絶対化するという、ソ連の第27回党大会以前の見地で働いているジャーナリストがまだいるということでしょう。
ただ、ゴルバチョフという人は、なかなか自己省察力もあって、いたるところで自分は『時代の産物』だといっています。自分も政治局員も、みな『時代の産物』なんだ、だからそういう時期の制約は免れられないんだといっています。自分を相対的にみる姿勢というものが、あの本にもでています。そういう点は指導者としては非常に重要な資質であると思うんですね」(同前、36~37頁)。
これが、1988年初頭時点での日本共産党のペレストロイカ評の基調だったのである。この姿勢は、その後、ソ連による社会党美化問題や、ロシア革命70周年記念演説における「4つの質問」をめぐる論争をめぐってしだいに批判的なものになっていく。しかし、たとえば、1988年の2月19日における宮本議長の日本記者クラブ講演「世界と日本の方向をどうみるか」においても、宮本氏はまだ、「私どもは、社会主義国にたいしてその長所の発揮を願い、そしてゴルバチョフ書記長のようなペレストロイカの試みが成功することを希望します」と述べている(同前、108頁)。この講演の中で、記者の質問に答えて、宮本氏はさらにこう答えている。
「私はいまのソ連の政権というのは、核軍縮だけでなく、一般軍縮についても踏み切ると思います。アフガニスタン問題など、前の政権が起こしたことですから手直ししにくいだろうけれども、ゴルバチョフ書記長はあそこを何とか抜け出したいということを度々、いろんなところで表明しています。そういう点では、われわれが批判している問題その他は一挙には片付かないけれども、漸次、社会主義の精神からみて、平和で民族主権尊重の政策をとりたいと思っているということは、彼の書物やわれわれの接触したことからみてそう思います」(同前、133頁)。
このように、国際問題に関してもゴルバチョフに対する信頼が表明されている。このような期待論は、その後の事態の展開を見ればかなり一面的で、希望観測的なものであったことは明らかである。たしかにアフガニスタンからのソ連軍の撤退は実現したが、介入そのものに対する自己批判は行なわれなかったし、バルト三国に関しては再び軍事介入が行なわれてさえいる。
さらに共産党は、同年3月に志賀一派に対する批判論文を2本続けて『赤旗』と『赤旗評論特集版』に掲載し、ソ連の指導部が新しい方向性に足を踏み出しているのに志賀一派は今なお「古い思考」にしがみついているという批判を加えている。また4月27日の『赤旗』「主張」でも同じようにゴルバチョフの路線への期待が表明されている(同前、234~237頁)。このように、少なくとも、1988年5月までは、日本共産党のペレストロイカ論はおおむね肯定的なものであったのである。
さて、党史の方はこの過程をどのように書いているだろうか。まず『70年史』は、いちおう、日本共産党がペレストロイカの提唱当初においては、それに対する期待を表明していたことについて、遠慮がちに触れている(『70年史』下、269頁)。しかし、すでに述べたように、ゴルバチョフの『ペレストロイカ』については、当初、宮本議長自身がその著書を高く評価していた事実には触れることなく、厳しい批判だけを加えている(誤った新思考路線を打ち出し、古い覇権主義にはまったく無反省である、云々)。この点で、歴史の正確な再現とは言いがたいものであるが、それでも、当初期待を表明していた事実については隠さずに書いていることは一定評価できる。
では、『80年史』はどうか? 『80年史』は、日本共産党が当初期待を表明していた事実、かなり高い肯定的評価を与えていた事実について何も語っていないどころか、あたかも日本共産党が最初からゴルバチョフの新路線に批判的であったかのような印象を与える叙述をしている(『80年史』、259~260頁)。
さらに、『80年史』は「日本共産党は、87年11月にひらいた第18回党大会で『新しい思考』路線への批判を開始しました」(『80年史』、260頁)とさえ述べている。たしかに、すでに述べたように、第18回党大会の宮本冒頭発言において、世界一体説や人民の闘争抜きに核兵器をなくすことができるかのような主張に対する批判がなされている(『前衛臨時増刊 日本共産党第18回大会特集』、23~24頁)。だが、この批判においては、ゴルバチョフについても、「新しい思考」についてもまったく名指しされていない。さらに、それと同時に、冒頭発言は、すでに引用したように、ペレストロイカに対する高い肯定的評価を与えていたし、この側面が第18回党大会におけるペレストロイカ評の基調だったのである。この点でも、『80年史』はさりげなく歴史的事実を歪曲している。