期待から極端な批判へ
1988年5月ごろまで続いた、ゴルバチョフの新路線への日本共産党の期待姿勢は、同年5月の不破副議長の訪ソとゴルバチョフとの会談、その後も執拗にソ連メディアによって社会党美化が行なわれたこと、などを契機として、しだいに批判的なものとなり、8月以降は、20年前の「現代修正主義」批判のときの左翼的戦闘性を思い出したかのように、この「新しい思考」に対する全面的な批判キャンペーンが開始されるようになった。そのときの批判の趣旨は大筋において正当なものであったが、10月になると宮本議長が「新しい思考」を「レーニン死後の世界の共産主義運動における最大の誤り」という明らかに誇張した規定を行なうまでになり、希望観測的な「期待」から極端な批判へと飛躍する。
まずもって、いくらゴルバチョフの「新しい思考」論に問題があるにしても、スターリンによる大粛清や、ナチスとの不可侵条約締結や、中国の文化大革命や、東欧でのハンガリー事件やチェコ事件、アフガニスタン侵攻など、あらゆる巨大な歴史的誤りを凌駕して「レーニン死後最大の誤り」と特徴づけることは、まったくバランスを欠いた極論であった。しかも、「レーニン死後」という限定も意味が不明である。レーニンが死ぬ前には、世界共産主義運動にそれ以上の誤りがあったということなのか? もちろん、それについては何も語られなかった。
当時、ほとんどの党員がこの宮本発言に大いに戸惑いを感じた。しかし、当時の共産党はすでに宮本顕治の暴走に歯止めをかけるような状況にはまったくなかった。上田耕一郎氏は、「レーニン死後の最大の誤り」という表現を用いるときには、あえて「イデオロギー分野における」という限定をつけたが、それがせいぜいできる精一杯の「抵抗」であった。こうして、「レーニン死後最大の誤り」なる表現は、当時、党内で「新しい思考」について論じるときには必ず用いなければならない合言葉のようになり、中央委員会総会でも確認されるに至った。
さて、党史だが、宮本時代に執筆編集された『70年史』は、この「新しい思考」論をめぐる記述の中で次のようにこの「レーニン死後の最大の誤り」論についてもちゃんと触れている。
「『宮本議長の80歳を祝う会』(88年10月19日)での答辞で、宮本議長は『新しい思考』について、『私はこれは、レーニンが死んだ以降の世界の共産主義運動の最大の誤りだと考えます』と断言した。この発言は、当時ゴルバチョフの『新思考』路線への幻想が党内外にまだ大きく存在したなかで、大胆かつ先駆的な発言であった」(『70年史』下、323頁)。
「党は、11月、第3回中央委員会総会(第18回党大会)をひらいた。……国際活動では、『宮本議長の80歳を祝う会』での発言につづいて、『新しい思考』の問題点がいっそう明確になるなかで、その『誤りの性質は社会発展の根源である各国人民の闘争の軽視、否定という点で、未曾有かつ広範』であるとし、あえて『レーニン死後の最大の誤り』だときびしく批判し、中央委員会総会として確認した」(同前)。
このように、『70年史』は、宮本顕治のこの思いつき的規定を「大胆かつ先駆的」なものとして評価している。さて『80年史』はどう書いているだろうか? 驚くべきことに、「大胆かつ先駆的」であったはずの「レーニン死後の最大の誤り」という規定について一言も書かれていないだけでなく、そもそも「新思考」との関連では宮本顕治の名前さえ出ていない。その代わり、当時副議長だった不破哲三のみがこの問題では活躍したことになっている。
「88年5月の日ソ両党定期協議で、不破副議長は、社会党がソ連によい顔をするからといって、ソ連側がそれで結構と美化するなら、日本の国民運動を妨害し、外部から干渉することになると、きびしく指摘しました。これにたいして、興奮したゴルバチョフは『荷物をまとめて帰国してもらいたい』と言いはなつという、ごう慢な態度さえとりました。
ソ連共産党は、88年、『新しい思考』を党の公式の見地として採用し、レーニンの主張と行動をもちだして、これを合理化しようとしました。日本共産党は、不破副議長の論文「『新しい思考』はレーニン的か」(88年9月)、「レーニンの名による史的唯物論の放棄――『人類的価値』優先論を批判する」(同10月)、「若きマルクスは新協調主義の援軍となりうるか――「『全人類的価値』優先論とマルクス」(89年1月)などで、『新しい思考』が、『全人類的価値』の名のもとに核兵器廃絶など今日の世界が直面している諸課題にたいする世界諸国民の闘争の抑制を説き、これを世界の運動におしつける点で、覇権主義の『古い思考』だと正面から批判しました。さらに、ゴルバチョフの論文「社会主義思想と革命的ペレストロイカ」(99年11月)にたいし、90年1月、不破委員長の論文「『新しい思考』路線はどこまできたか」で、米ソ協調主義を極端化させていると批判しました」(『80年史』、260~261頁)。
このように、宮本氏のイニシアチブは完全に消失し、不破氏がもっぱら「新しい思考」論とたたかったかのようになっている。宮本主導から不破主導へと歴史叙述が転換された明白な一例である。
イタリア共産党の変質
『70年史』は、「新思考」路線について、イタリア共産党の変質との関連で再び詳細に論じている。少し長いが引用しておこう。
「イタリア共産党は[1989年]3月、第18回大会をひらいた。大会は『人類生き残りの問題』に焦点をあて、『相互依存の新しい世界』のための『対話』、『協調』の重要性を強調する一方で、前大会文書ではかかげられていた核兵器廃絶の課題を欠落させた。また、『共産主義運動という概念は今日では意味を失っている』として、社会民主主義政党との共同をめざした。組織問題では、『民主主義的中央集権制』の規定が規約から削除され、『分派禁止』条項が撤廃された。イタリア共産党が『新しい思考』に同調し、共産主義政党としての立脚点を自己否定するにいたったことは、事前から明白であったため、党中央委員会は全人類的価値優先論の誤りを指摘し、『あなたがたの大会を注視するものです』という内容のメッセージを送った。大会は、ソ連共産党のゴルバチョフ書記長や西独社民党幹部ら4ヵ国の外国代表あいさつをビデオで会場の特設スクリーンに映した。党代表の阪本英夫幹部会委員は、イタリア共産党に、特定の党を優遇する不当な措置にたいして抗議を申し入れた。緒方靖夫国際部長は『赤旗』(3月27日、28日に論文『イタリア共産党第18回大会が示したもの――共産主義政党の立脚点から離反した古くて「新しい路線」』を掲載し、この大会への批判的分析をおこなった」(『70年史』下、337頁)。
こうした記述は『80年史』ではまるまる削除されている。その理由はおそらく、緒方靖夫氏をはじめとする党の理論家たちが当時書いたイタリア共産党批判論文の中身にあると思われる。たとえば緒方氏は『70年史』で紹介された論文の中でこう述べている。
「党規約改定問題では、今大会まで有効であった規約からの「社会主義社会」の削除、思想的理論的源泉からマルクス、エンゲルス、レーニンの名の消去の提起すらおこなわれたことは、社会民主主義政党との共通の基盤づくりへの熱心さを内外に印象づけました」(『イタリア共産党はどこへ行くか』、46~47頁)
周知のように、この論文が書かれた11年後に、日本共産党もまた規約から「マルクス、エンゲルス、レーニンの名の消去」を行なったのであった。日本共産党の場合、民主集中制はより強化されて残ったが、それ以外の点では、日本共産党の規約改正はイタリア共産党のこの時の規約改正とあまりにもよく似ていたのである。