1980年代末から1990年代初頭にかけての時期は、いわゆる「社会主義」諸国にとって歴史上最大の激動の時期であった。ゴルバチョフの新路線にもはげまされて、東欧諸国で次々と民衆が官僚独裁権力に反対して立ち上がり、共産党一党独裁体制が崩壊していった。これは、一方では、これらの官僚国家の中で長年にわたって積み重ねられてきたさまざまな矛盾の爆発の結果であり、民衆の支持を獲得することのできなかった傲慢で抑圧的な官僚体制の自壊の過程であると同時に、他方では、民衆がこの官僚体制を社会主義と等置していたことで、必然的に変革の方向性は資本主義にもとづくブルジョア民主主義社会へと収斂していった。
こうした事態の直後の時期に開催された第19回党大会(1990年7月開催)においては、何よりもソ連・東欧の体制に対するより踏み込んだ評価、社会主義論の新たな解明と展開、東欧諸国の崩壊を受けて急速に増大しつつあった「社会主義崩壊論」に対するイデオロギー闘争などが焦点となった。大会は、社会主義を学説、運動、体制の三つの側面から解明した。『70年史』は、この大会における社会主義論について次のように紹介している。
「大会は、『現存の社会主義体制をみるさい、レーニンが指導したロシア革命の最初の時期と、スターリンによる逸脱が開始されて以後の時期とを区別して分析的にみることが必要である』と指摘して、レーニンの死後『ソ連の体制は対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制へと転換させられていった』ことを解明し、そのうえで『日本共産党は、科学的社会主義の生命力が体制的にもかつて発揮されたことに確信をもちつつ、体制としての本格的な前進はこんごの課題であること、それだけに発達した資本主義国・日本で活動するわが党の役割が重要である』と強調した」(『70年史』下、378~379頁)。
以上の引用文は第19回大会決議をおおむね正確に紹介していると言える。
さて、『80年史』ではこの点についてどう紹介されているだろうか。以下に引用しよう。
「大会は、社会主義を学説、運動、体制の三つの見地を区別してつかむ意義をあきらかにして、レーニンの死後、『ソ連の体制は対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制』に変質したと解明しました。この解明は、ソ連・東欧の激動を旧体制の崩壊を材料にした社会主義崩壊論を攻勢的にうちやぶっていくうえで、重要な意義をもちました」(『80年史』、268~269頁)。
一見すると、両者の叙述には、『80年史』がやや短くなった点を除けば、それほど大きな違いはないように見える。しかし、慎重に見ると、『70年史』と『80年史』では重要な違いがある。『70年史』では、あくまでも現在ソ連に存在するのは社会主義であることを前提に(「現存の社会主義体制をみるさい……」という引用文を見よ)、その社会主義の枠内で「対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制へと」転換させられていったという論理構造になっている。しかし、『80年史』では、「現存の社会主義体制をみるさい……」という引用文がなくなるとともに、「『ソ連の体制は対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制』に変質した」と書かれている。
ここでのポイントは、「変質」という表現である。第19回党大会決議では、『70年史』で引用されているように、「変質」という表現は使われずに、「転換させられていった」という表現が用いられている。共産党の伝統的な用語法においては、この違いは重要である。「変質」という言葉は、「社会主義完全変質論」でいう際の「変質」を想起させるものであり、社会主義とは別の社会構成体に変化したことを意味する用語である。それゆえ、日本共産党は現存社会主義についてこの言葉を用いるさいには、きわめて慎重であり、第20回党大会までは、「一定の分野での変質」という以上の意味ではけっして使わなかったし、しかもその矛先は基本的に中国共産党であった。それゆえ、第19回党大会決議では、ソ連の体制はいちおう社会主義であるという前提は変わっていなかったので、「変質」という言葉は使われずに「転換させられていった」という別の言葉が用いられているのである。
ところが、『80年史』では、「変質」という言葉が用いられているために、第19回党大会決議について十分知らない読者が読めば、あたかもすでに第19回党大会の時点で、共産党が、ソ連の体制が社会主義から別の社会構成体に「変質」したという見地を表明していたかのような印象を与えるものになっている。これもまた、さりげない「歴史の歪曲」である。