不破史観の確立と発展――『日本共産党の80年』の批判的検討(下)

28、1990年代初頭(2)――ソ連共産党の解体

 東欧諸国の官僚体制を次々とくつがえしていった東欧革命の波は、本丸であるソ連にもおよばないわけには行かなかった。1991年8月にソ連の一部官僚がこの激流を官僚的にせきとめようと無力なクーデターを引き起こし、それがかえってソ連共産党の支配体制の崩壊を一挙に早めた。このクーデターはわずか3日で破綻し、街頭を埋め尽くす民衆によって阻止されたクーデター軍はたちまち民衆側に寝返ったか、中立的立場をとった。軍隊に見捨てられた連邦官僚はたちまち空中分解し、実権はあっさりと、ロシア連邦の指導者であったエリツィンの手に渡った。
 クーデター側に捉えられていたゴルバチョフは、ほんの数日前まで全ソ連の英雄だったが、解放されてみると、今では民衆の英雄がエリツィンになっており、自分の政治的生命がエリツィンに握られていることを知った。ゴルバチョフは意気消沈して、自己保身のためにソ連共産党の一方的な解散を宣言した。こうして、下からの民衆の大規模な運動によって打倒された東欧と違い、ソ連共産党は、その組織的・イデオロギー的力と物質的基盤の大部分を温存したまま、上からの一方的な解散によって形式的に存在しないこととされたのである。
 ソ連共産党は、連邦共産党としては存在しなくなったが、各国ごとの共産党としてはそのまま生き残った。しかも、この形式的解散措置によってむしろ、共産党のスターリニスト官僚とその官僚的・抑圧的な組織構造はそのまま残された。生き残った各国共産党は、スターリニストと民族主義者の巣窟となり、共産党改革の最後の可能性をも破壊することになった。
 本来必要であったのは、ゴルバチョフの自己保身のための上からの「解散」劇などではなく、下からの末端党員およびその周辺の良心的世論を主体とした徹底した自己改革と自己粛清であり、過去の歴史における数々の犯罪と誤りを徹底的に自己切開し、その責任者たちを党の責任において処罰・除名し、幹部を全面的に入れ替え、党の内部体制を徹底的に民主主義的なものに変革し、たとえ10分の1、100分の1に縮小したとしても、党内の腐敗分子、特権官僚、下劣な民族主義者、救いがたいスターリニスト、権力犯罪者などを一人残らず放逐することであった。
 にもかかわらず、そうした下からの変革を未然に防ぐために、ゴルバチョフは上からの解散によって、自らも大きな責任を負っている共産党の権力犯罪に蓋をしようとしたのである。このようなクーデター的で反民主主義的な「解散」劇を支持することは、まともな共産主義者、民主主義者なら絶対にできないはずであった。ところが、8月のクーデターとソ連共産党の解散という思いもかけぬ情勢の激動に「腰を抜かした」宮本指導部は、中途半端な態度をとって反共派につけ入る隙を与えるぐらいならば、誰もが予想しないようなきっぱりとした調子でこの解散を支持することで、難局を乗り切ろうと考えた。
 こうして、宮本顕治氏による「もろ手を上げて歓迎する」という例の驚くべき発言がなされたのである(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)。この発言の翌日、常任幹部会はこの宮本発言をそのまま採用した、「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する――ソ連共産党の解体にさいして」という声明を発表した。形式的にも内容的にも絶対に支持できない「解散」に関して、右翼も顔負けの「もろ手を挙げて」(すなわち、無批判的かつ全面的に)歓迎するという信じがたい声明を出したのは、世界の共産党・労働者党の中で日本共産党だけであった。
 この宮本の戦術は、右翼勢力が上げたこぶしの下ろしどころを突然失って当惑させたという意味で、なるほど一定の効果をもった。しかし、それは、日本共産党自身のこれまでの活動の全体と発言のすべてに矛盾するという代償を払ってのことであった。これ以降、共産党指導部は、いかに日本共産党がソ連共産党と命がけでたたかってきたかについて『赤旗』などで長期連載したり、大特集を組んだり、あらゆる集会や宣伝物で強調したりして、反ソ連キャンペーンに躍起になった。
 しかし、日本共産党によるソ連共産党批判があくまでも、誤りを犯した兄弟党、同志に対する厳しい批判という枠を出ていなかったことは、あまりにも明白であった。たとえば、この「歴史的巨悪の党」という規定が打ち出されるわずか4年前に発表された無署名論文「日ソ両共産党関係を素描する――10月革命70周年にあたって」という、これまでの日ソ両党関係を総括する重要論文は、1964年に始まるソ連からの干渉と論争の歴史を振り返るにあたって、わざわざ次のように書いている。

 「いまここで、干渉と論争の20年を簡潔にふりかえるのは、もちろん両党関係のいっそうの発展を望む観点からである」(『日本共産党国際問題重要論文集』第17巻、329頁)。

 また、すでに紹介した第16回党大会における「社会主義完全変質論」批判もまた、ソ連共産党の二面性をともに理解しようとする日本共産党の一貫した立場の延長線上にあるものである。このときの党の立場は、「ソ連社会主義」に対する認識がまだきわめて不十分とはいえ、「歴史的巨悪の党」などという無内容な極論に比べればはるかにまっとうな立場であったと言えるだろう。
 また、日本共産党は、ソ連による干渉後も、ソ連共産党側が反省と対話の姿勢を見せた場合には、ただちに対話に応じてきたし、しばしば共同宣言を出してきた。そのうちの一つである1984年12月の日ソ共同声明は、とりわけ高く評価された。この共同声明の一方の当事者であった宮本顕治議長(当時)は、直後の『赤旗』新春インタビューの中で次のように述べている。

 「これまで社会主義国にかんしては、『文化大革命』とかアフガニスタン問題とか、ほんらいの社会主義の立場ではないことを、われわれが弁明的に触れなければならなかったことが多かった。こんどは、社会主義だからこそこういう決断ができるんだという社会主義の理性、その光というものを、当然のことながら大きく評価できるようになったということは非常に喜ばしいと思うんですね」(『日本共産党国際問題重要論文集』第15巻、11~12頁)。

 このように評価したのは、「歴史的巨悪の党」が滅びるわずか7年前のことである。このとき、宮本顕治氏は、「歴史的巨悪の党」の頭目であるはずのチェルネンコを「レーニンにつぐ平和の戦士」と呼んだだけでなく、チェルネンコから実に「暖かい」もてなしをも受けている。宮本自身がそのことを記者の質問に答えて得々と述べているので、ちょっと長くなるがそれを紹介しておこう。

問い チェルネンコ書記長はことし満73歳になるわけです。その健康不安が世界的に注目されているわけですが、宮本さんはこんど長時間にわたってチェルネンコ書記長と会談されたわけで、書記長の会談におけるやりとり、あるいは対応の仕方、話し方、そういうことからチェルネンコさんの健康はどういう状態と判断されたか、まあお医者さんでないわけで(笑い)、それほどくわしい観察はされなかったかもしれませんが、そのへんの印象を一つしゃべっていただきたいと思います。もう一つは、こんど日本共産党が久しぶりに代表団を組んで訪ソしたわけですけれど、その代表団のソ連における待遇が、どんなものだったか(笑い)。宮本さんは、たとえばどこへ泊まって、どういう食事が出てきたか(笑い)、そういうようなことを、ちょっと参考のためにお聞きしたい。
 宮本議長 私は日本の医者の代表団でいったのではないので、あまり医学的な観察はむねとしなかった。問題は政治的にどうかということです。第1回の党首会談が終わって今後どうするかという問題が出たときに、ソ連側の国際担当は、これからあとはチェルネンコ書記長や私など党首をのぞくあとの者で適当にやりたいということをいったのです。私は、これは党首会談であり、最後までやはり党首が責任をもつべきだという態度を堅持した。そしてもう1回党首会談をやって共同声明を確認しようではないかと私がいった――そのときチェルネンコ書記長は、周りのものに相談することもしないで自分の決断で「ハラショー(結構だ)」といいました。
 そういう点では、彼は政治的なりーダーシップをちゃんともっている。しかも、形だけでなんとかすまそうというのではない。やはりこの機会に問題を正確につかみ、真剣なものをつくろうという熱意がありありと見えた。それで、3時間半になったわけですが、彼の場合こういう長い会談はこれまでなかったというんです。確かに、そういう会談に耐えるということは相当だったと思うのです。
 しかも、リーダーシップを完全に、また正しくもっている。たとえば、最後の、2回目の会談をやったときに、共同声明について、この文書には世界的規模、地球的規模のことがうたわれている、国際政治のグローバルな問題で双方が一致してのべたことを評価すると、非常に高い視野から会談というものを位置づけて、そして非常に重視している。判断力の幅が広いことも感じました。もちろんソ連共産党の路線に忠実ということは当然です。ただ一致点が大事だということはちゃんとわきまえて、よくやったと思います。そういう点ではわれわれに、話はわかるという新しい期待をもたせた。
 それから、待遇という面ですが、われわれの代表団はかなり多人数だったのです。正式の代表が8名で、その他、随員、『赤旗』カメラマンなどが行った。むこうの迎賓館は定員5、6名で、迎賓館には入らなかったのです。私は前回は迎賓館に入ったんですが、こんどソ連側は迎賓館とホテルに半々に泊まるかという提案もしてきましたが、私はやはりバラバラになっては連絡が悪いので こういう交渉というものはしょっちゅういろんな事が起こってくるものですから、いっしょに泊まることにした。そこは、ソ連共産党の新しいホテルです。そこには日ごろ使わないスペシャル・ルームというものがありまして、それを私たちに使わせるなどしました。往復の飛行機も、私は元気ですが、年齢を考えて、ファースト・クラスの半分を仕切って、特別機に使うような執務用の机をつくり、寝台を置いてくれた。それから、ソ連製のシャンペンを特別に(笑い)、最後にくれた。これはおそらくチェルネンコ書記長あたりが、彼はあとでいい新年をといってましたから、手配したのではないかと思います。
 それから、友好的、同志的というのは、うそではありません。それは、この問題にかんしては同志的、友好的ということなのであって、ほかの問題、千島問題などもち出すとそういうことにならないでしょうが(笑い)」(同前、152~154頁)。

 これが、「歴史的巨悪の党」であるはずのソ連共産党の最高指導者と、それと「30年にわたって命がけで闘ってきた」はずの日本共産党の最高指導者との、「ほほえましい」エピソードである。たしかに「友好的、同志的というのは、うそでは」ないのである。
 この声明以後、両党関係はしだいに親密なものになった。先に紹介した「日ソ両党関係を素描する」は次のように書いている。

 「この共同声明以後、日ソ両党間の交流は、急速にと言ってよいほどに拡大している」(『日本共産党国際問題重要論文集』第17巻、340頁)。

 同論文はそう書いて、両党間の交流を「日記風」にたどっている。そして、以上の歴史を振り返ったあとに同論文はこう述べている。

 「日本共産党は、核戦争阻止、核兵器廃絶の問題自体に関しても、両党のいっそう緊密で力づよい協力の発展を希望している。また、『わきにおいた』ままになっているそれ以外の国際的な重要課題でも同様の協力が開始されるようになることを期待している」(同前、341頁)。

 さらに、同論文は、ソ連社会についてもこう述べている。

 「われわれはまた、10月革命70周年にあたり、70年前に遅れた資本主義国から出発した社会主義のソ連が、人民の生活、教育、医療などの分野で今日までに築きあげてきた大きな成果を土台に、政治的経済的文化的にいっそう前進・発展することへの期待を表明する」(同前、341~342頁)。

 最後に、「30年にわたり命がけてソ連共産党とたたかってきた」という総括を完全にくつがえす文章を、この「日ソ両党関係を素描する」から引用しておこう。

 「おおざっぱであるが、これまでたどってきたように、65年間の日ソ両党関係のうち、主要な部分は友好と協力の関係である。3年前に緒についた現在の友好・協力関係をさらに発展させると同時に、その関係をいっそう強固にするためにも、それ以前の20年をきっぱりと総括すべき時期にきている」(同前、344~345頁)。

 その後、新思考をめぐって再び論争の時期が訪れるが、いずれにせよ、「歴史的巨悪の党」と「30年にわたって命がけでたたかってきた」という総括がいかに、歴史の現実と一致しない一面的なものであるかは明らかである。
 さて、党史の方だが、『70年史』においては、「もろ手を挙げて歓迎」という途方もない規定が、基本的に宮本顕治によって最初に発せられたものであり、その後、党の常任幹部会声明で踏襲されたのだという事実がきちんと語られている(『70年史』下、409頁)。ここでも、「新思考」の場合と同じく、バランスを欠いた極論の提唱者が宮本顕治であり、党指導部全体がそれに奴隷的に追随している構図がはっきりと示されていた。『70年史』においては、この宮本発言にとどまらず、この時期のイデオロギー闘争の先頭に立ってそれを指導していたのは宮本であり、節目節目に宮本が重要な発言を行なうことで、党の基本路線が定められていったという印象(事実においてもそうだが)を読者に与えるものになっている。
 では、『80年史』はどうか? 『80年史』では、8月31日の宮本発言のみならず、基本的に宮本顕治の名前がことごとく抹消され、ただ、党の常幹声明などの公式の声明類だけが記述されている(『80年史』、264頁)。
 また、『70年史』では、「もろ手を挙げて歓迎」を表明した9月1日の常幹声明において、単にソ連共産党の解散を歓迎する議論だけでなく、同時に、今回の変革は歴史法則的なものではなく、歴代指導部の誤りの積み重ねによって生じたものにすぎないこと、ロシア革命の世界史的意義を清算主義的に否定されるべきではないこと、発達した資本主義国である日本における革命は新しい展望を切り開くものであることなどについても書かれていたことが紹介されている。しかし、『80年史』では、この部分については完全に削除され、9・1常幹声明があたかも、ソ連共産党の解散歓迎論だけを主張していたかのような記述になってしまっている。

 以上で、基本的に、『70年史』の叙述と重なる部分の検討は終りである。『70年史』は1994年5月に発行されており、その記述も1992年7月15日の党創立70周年の時点で終わっている。したがって、それ以降は、『70年史』との比較ではなく、単純に事実との比較が中心にならなければならない。
 われわれが詳細に見てきたように、『80年史』は、全体として短くすることをつうじて、多くの都合の悪い過去を消し去るとともに、あちらこちらで歴史のさりげない(時に露骨な)歪曲を行なっている。われわれが取り上げ指摘したものは、おそらくそうした削除と歪曲の一部にすぎない。今後、もっと詳細かつ多面的に『80年史』が検討批判されることを期待したい。
 さて、本稿は、基本的に過去の党史との比較をつうじて『80年史』を論じることを課題としており、それゆえ、『70年史』の叙述時期が終わった時点でいちおう終りにしておきたい。しかしながら、基本的に不破哲三氏が党の実権を握るようになったこの1993年以降の時期に関する『80年史』の記述には、看過できない多くの意図的な事実歪曲や、重要な史実の書き落としなどが散見される。そこで、この時期の『80年史』の検討は、次号で稿をあらためて論じることにする。

2003/5/12-19 (S・T編集部員)

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