近年ではほぼ十年ごとに党史の書きかえが行われている。考えてみれば、さかのぼって「党の歴史」が書きかえられること自体が奇妙なことであるが、「党の歴史」そのものは変えようがない事実であるから、「書き換えられた内容」はむしろそのときどきの「党指導部の変わり方そのものの反映」というべきかもしれない。
「日本共産党の八十年史」(以下「八十年史」)については、すでに本サイトの投稿欄やさざ波通信30号でも語られている。特に前号の京谷通信員の投稿論文やS・T編集部員の論文は綿密に検証が行われたものであり、私は、短期間にこれだけたいへんな仕事をされた両氏に敬意を表したいと思う。
また、編集部の「お知らせ」によれば、今号でもS・T編集部員の後編が掲載されるとのことであり、貴重な指摘もあると思われる。
この投稿論文で、私は「八十年史」を概観し、総論的なことや現在の党指導部の総路線、いうなれば「党指導部の変わり方」について語りたいと思う。
日本共産党指導部の右傾化が指摘されてすでに久しい。さざ波通信トップページを見ると「1999年2月開設」とある。このころに、指導部の右傾化が顕著になり、党内の一部に存在した異論が顕在化するようになったことを示している。
党内の異論が近年、質的な変貌を遂げてきたかにみえる。かつて、中央レベルでは「志賀義雄氏らの除名」、「西沢隆治氏らの除名」など政治路線が争点となるようなものもあったし、袴田里見氏や広谷俊二氏など、党活動の基本的なあり方をめぐる厳しい対立もあったが、党の基礎的なレベルにかぎっていえば、党中央に対する批判や疑問は70年代からすでに存在していたものの、当時は主として党勢拡大を自己目的化する活動方針に対するものであったり、あるいは党内民主主義をめぐるものがほとんどであった。つまり、私のような基礎組織に属する党員にとっては、中央の政治方針や政策的な点について異論を抱くことはそれほど多いことではなかったということである。これは、2つの敵の規定、2段階連続革命の理論、革命運動における議会の位置づけなどが、基本的には綱領路線の上に立ち、その具体化として政治方針がつくられ、政策化されていたことによるであろう。
現在、私たちが見ることができる唯一の「顕在化した党内異論」はさざ波通信である。この意味でさざ波通信は投稿欄も含めて日本共産党を映し出す鏡の役割を果たしているようであり、日本共産党指導部の変節の歴史を端的に示している。
この創刊号(99年3月)では1998年参院選での共産党の躍進と自民党の惨敗を受けて打ち出された「安保廃棄という共産党の政策を棚上げにした暫定政権構想」が批判されている。また、この直後に出されたさざ波通信号外では「日の丸・君が代の法制化を求めた」党指導部が厳しく批判された。この他にも、「消費税廃止」の廃止、さらには「3%に戻すことの棚上げ」など消費税をめぐる混迷、有事の自衛隊活用論、天皇の母の死や皇太子の子の誕生をめぐる天皇制の受容、国労問題に対する反労働者的な対応。近くは、イラク戦争をめぐる無批判な「国連決議の絶対化」、無限定の国連中心主義的対応……。プロレタリア国際主義の欠落と偏狭な民族主義。嘆息と苦痛なしでは書き続けることが困難なほどである。これらの中央指導部の政治的変質が近年の基礎組織レベルでの異論を生み出す底流にある。かつての「党の活動方針をめぐる異論、党内民主主義に関する異論」などと比べると質的な相違がみられ、もはや党の路線全体にかかわるものとなってきている。
「安保(廃棄)棚上げ」の暫定政権構想は、98年参院選での自民党惨敗、共産党の躍進という情勢の中で突如出されたものである。躍進をしたといっても日本共産党は得票も議席もわずかなものでありながら、おそらくこのころの党指導部の目には「『政権』(=単に行政権の頂上に参加するだけのこと)への参加」というきらびやかな幻想がちらついたに違いない。
国会内に議席を占めるほとんどの政党や議員は、政権与党になることや大臣になることに絶ちがたい誘惑を感じる。このため、政党間や派閥間のかけひき、離合集散が議会政治の常となる。このようにして形成された政権では、そこにどのような政党が参加しようともその時々の支配の大枠をはみ出す政策を実現することは不可能である。
「共和国であろうと、君主制であろうと、ブルジョアジーが国家権力をにぎり重要産業をにぎって、大多数の国民にたいして、政治的にも経済的にも階級支配をおこなっている状態(ブルジョア独裁)を打破」(不破哲三著『人民的議会主義・上』174頁・新日本新書版)することなくして、勤労人民の根本的利益を守る政策の実現のみならず、「資本主義の枠内における改革」「ルールある資本主義」の実現といえどもほとんど不可能であろう。
かつての村山内閣──社会党首班において、安保を容認し、自衛隊を閲兵する社会党党首の姿をみれば、大局的には、このような形での政権参加は「その党が掲げた政策の実現を意味するのではなく、その党が掲げた政策の変更」を意味しているに過ぎないことがわかるはずである。また、現政権に参加している公明党にしても、その支持基盤とする社会の底辺の人々の利益に反する政策を推進し、イラク戦争にも荷担する役割を担っている。ちょうどこの投稿を書いている最中に、さざ波通信をのぞいたところ、「公明党が、ある時は与党になり、ある時は野党になるたびに、私たちは選挙のたびに言うことを全く変えなくてはならない。私には残念なことに、そんな器用さ、あるいはずる賢さはない。」(創価学会員としての困惑・2003/4/10)という投稿があった。共産党とて同じことで、もし万一、共産党が安保棚上げの政府に参加していたならば、このイラク戦争に反対という姿勢を貫くことができたかどうかはなはだ疑問である。
政治の変革についての日本共産党の基本的な考え方は、たとえば以下の綱領の2、3の引用でも明らかになる。
当面する党の中心任務は、アメリカ帝国主義と日本独占資本を中心とする反動勢力の戦争政策、民族的抑圧、軍国主義と帝国主義の復活、政治的反動、搾取と収奪に反対し、独立、民主主義、平和、中立、生活向上のためのすべての人民の要求と闘争を発展させることである。そしてそのたたかいのなかで、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する強力で広大な人民の統一戦線、すなわち民族民主統一戦線をつくり、その基礎のうえに、独立・民主・平和・非同盟中立・生活向上の日本をきずく人民の政府、人民の民主主義権力を確立することである。 (中略)
民族民主統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席をしめ、国会外の大衆闘争とむすびついてたたかうことは、重要である。国会で安定した過半数をしめることができるならば、国会を反動支配の機関から人民に奉仕する機関にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる。
党は、国民の多数を民族民主統一戦線に結集し、その基礎のうえに政府をつくるために奮闘する。この政府をつくる過程で、党は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打破していくのに役だつ政府の問題に十分な注意と努力をはらう。一定の条件があるならば、民主勢力がさしあたって一致できる目標の範囲で、統一戦線政府をつくるためにたたかう。
単純化に図式化すると、「人民の要求と闘争を発展させる・闘う組織をつくる」ことと深く結びつけて議会内の闘いを展開するということが根底にあり、これが日本共産党の誇るべき伝統であった。この思想は、「日本共産党は護民官」などの代行主義的発想と両立することはない。
広汎な民衆の闘いと切り離され、支えるべき闘いの組織もないところで、政権参加をしたところで、結局は「その党が掲げた政策を実現することはできず、その党が掲げた政策を変更する」以外にはない。
今日の日本共産党(指導部)は八十年の歴史を経て、民衆の闘いと切り離されたところで、議会内のかけひきに明け暮れ、「選挙だけがすべて」であるかのような活動方針のもとに「票ほしさ」になりふり構わず狂奔する、ありふれた「ごく普通の議会内政党」であるかのような感を呈するに至った。私見ではあるが、今日の不破・志位指導部を特徴づけるとすれば第一に「無原則な議会主義への転落」あげなければならないであろう。
その後の国政選挙、先の統一地方選挙における深刻な後退はこのことと無縁であろうはずがない。そして、もっとも革命的、活動的な党員の離党や活動の消極化を招き、熱心な支持者の支持を失う最も大きな要因となっている。