<投稿論文>八十歳を迎えた日本共産党・指導部の混迷

破綻した「計画的な党勢拡大路線」

 日本共産党は、八十年前、非合法の党として出発しましたが、今日、四十万人をこえる党員、二百万人近い「しんぶん赤旗」読者をもち、発達した資本主義国の共産党のなかで最大の勢力の党となりました。(『八十年史』325頁)

 「しんぶん赤旗」は1980年ごろがピークで、300万部をゆうに越えていたはずである。また、党員数は1980年代の半ばには「50万人に近い」とされた時期がある。ピークに比べれば激減であるが、『八十年史』が言いたいことは、ソ連崩壊後、イタリア共産党は分裂、消滅し、フランス共産党は得票率3、4%の少数政党に後退した中で、「日本共産党は健闘している」ということであろう。確かに「発達した資本主義国の共産党のなかで最大の勢力の党」になったことに間違いはなかろう。

<どのようにしてできた党か>
 日本共産党は、イタリア共産党やフランス共産党と成長の仕方が明らかに異なる点がある。目標を立てて期限を設けて、計画的に党勢を拡大するという「ユニークな」路線をとって成長を遂げてきた。おそらく党歴が30年を越える党員であれば、多くの人がよく知っている事実であるが、党勢拡大運動はまことに厳しい「活動」であった。職場、地域、学園で普通に活動している党員であれば、定期的に一定の党員を増やし、新聞を拡大することを継続的しかもほぼ無限定に続けることはもともと困難なことである。「計画的な党勢拡大」は「これ」をやるという路線であった。ふつう党員は、それぞれのところでかかえる大衆運動をやっているから、あるところまでは拡大が進む。これが一定のところまで進むとそれ以上は拡大ができない壁に突き当たる。ところが、これを許さないというのが「計画的な党勢拡大路線」である。ある程度の拡大が進むと壁に突き当たるのは当然であり、もう少し大衆運動をやるなどして周りの人々とのつながりをひろげなければならない、と思うようになることも当然である。しかし、これを党中央は「壁論」とか「段階論」などといって厳しく批判した。
 拡大運動(月間)の時には、地区の会議で支部毎に目標を決めさせる。しかし、現実にはなかなか進まないので、さらに期限を細分化した節(ふし)を設ける。地区機関の専従活動家が地区内の支部(細胞)を分担して担当し、支部会議にも出席して拡大の意義を説き、こと細かに目標を設定する。拡大月間の期限が近づくと毎日地区機関へ行くなり、電話なりで拡大の成果を報告する。地区の担当専従は厳しく点検する。これを日報体制といった。いま考えると、マインドコントロールに近いものがなければ、あのような活動はできないと思うが、当時の心理状態はそんなところであった。ときには活動者会議ということで、深夜に招集されることもめずらしくはなかった。新聞を取ってくれそうな人が周りにいない場合には町中で歩いている、何の面識もない人に呼びかけるような拡大運動もあった。「計画的な党勢拡大路線」を始めたころの「革命運動に必要なところに必要な党をつくる」という党建設の基本はもはや忘れ去られていた。
 また、いまの「しんぶん赤旗」の読者には想像もつかないだろうが、「○○県△△地区目標達成!!」といった記事が一面トップに載ったものであった。読者に「こんな記事を読者に読ませるの?」と言われたことがよくあったが、このような記事が「党活動欄」おさまるようになったのはかなり後のことであった。
 いくら努力してもなお期限内に目標が達成できない場合がある。そうすると、達成できなかった県党や地区党は拡大月間を独自に延長して党員を叱咤激励することになる。これが時としてたいへん長期にわたることがある。私の経験では、一年のうち半年近くを「拡大月間」として過ごさなければならないときもあった。これに国政選挙、地方選挙、補欠選挙が加わるので党員が職場、地域、学園で周りの人々といっしょにそれぞれの課題で活動することが時間的にも、精神的にもおよそに不可能になる。こうして「計画的な党勢拡大路線」は党員と周りの人々との生々きとした結びつきを破壊し、大衆闘争や大衆運動を著しく困難にする。「やりすぎれば反対物に転化する」典型的な事例である。
 目標が達成できないときには、「原因を掘り下げ、自らを点検せよ」とばかり、厳しい自己批判を要求される。これは基礎組織の党員に対してだけではない。基礎組織の党員を厳しく点検する地区機関の専従活動家にはもっと厳しい追及が待っている。もともと無理なことをやっているのであるが、「計画的な党勢拡大路線が間違っている」と気づかない限り、目標を達成できなかった自らを厳しく責めることになる。こうして健康を損ね、若くしてリタイアしなければならなかった人を私は何人か見ている。医者に行ってもどこが悪いかはっきりしないので「自律神経失調症」という病名をもらった人が多く、「自律神経失調症は常任(専従)病」と言われたほどであった。私の友人でも、結局、大学を続けられなくなった人も何人かいる。
 さらに、地区機関がどうしても目標を達成するために、拡大もしていないのに「拡大する予定」部数を先に申請(「決意申請」といった)してしまうことさえ行われた時期があった。拡大できなければその代金は支部が負担することになる。私は当時学生支部に所属していた。現在のように配達網ができておらず、配達はおもに手渡しであった。この負担だけではなく、新聞を配達しないことがあり、当然新聞代をもらえない。夏休みなどに支部の党員がアルバイトをしたり、小遣いを削って機関紙代をおさめたこともあった。
 宮本氏が始めた「計画的な党勢拡大路線」は、確かに党を大きくした。しかし、どれほど多くの党員、「拡大運動はできない」けれども真面目な、あるいは有能な党員が党を離れていったことか。特に経営(企業や役所の)支部の壊れ方は際だっていた。経営支部の壊れ方は今日まで一貫して続いている。
 組織路線上でいえば、今日の党はこのようにして大きくなった党である。この党活動の路線は、比喩的に言うと「ザルに水を入れるようなもの」であるから、休むことなく拡大し続けなければならない。したがって、続ければ続けるほど党と周りの人々との生々きした関係は損なわれ、党勢拡大そのものも進まなくなる。
 「計画的な党勢拡大路線」による党勢拡大は、組織路線として一般化できるようなものではないから、党が大きくなる条件がなくなれば進まなくなる。今日のような生やさしい方針では絶対に拡大は進まない。1980年代半ばごろから、すでに拡大が進まなくなったどころか、減少傾向にまったく歯止めがかからなくなった。また、党員の高齢化や消滅寸前の民青同盟やなどの深刻な組織路線上の問題は、ソ連崩壊の政治的影響もあるけれども、「計画的な党勢拡大路線」の破綻であることも明らかである。

 党建設の分野でも、重要な発展かおこなわわました。九九年六月の中央委員会総会では、「総選挙をめざす党躍進の大運動」を提起し、そのなかで、九三年いらい発展させてきた「支部が主役」の立場でこの運動をすすめると同時に、支部と党機関が血をかよわせた循環型の活動の知恵と経験を生かして、国民との交流・結びつきをひろげるようよびかけました。大会は、これらをふまえ、あたらしい規約を新鮮な力とし て、五十万の党づくりを内容とする五カ年計画をきめ、……。(『八十年史』307頁)

 現在の党員拡大運動は「支部が主人公」などというけれども、極言すれば「実際は新聞配達や、選挙のときの支持拡大、ビラ配り、ポスター貼りの人手がほしい」というところである。また、現在の拡大運動はほとんど地方議員に依存するものとなっている。議員が拡大運動や配達活動に没頭すれば、おのずと議会活動は二の次になり、広汎な住民との結びつきを確保することが困難になる。
 40万人などという党員数は実はまったく架空のもので、党費納入党員は何%か、定期的に支部会議に出席する党員はどれぐらいいるか、職場の組合活動に積極的に参加している党員はどれぐらいいるかを調べれば、おどろくべき低い数字になるに違いない。
 「大衆的『前衛』党」という党建設上の基本的な理念についての論議は別にして、少なくとも、職場や地域で多くの人々と生々きとした結びつきを持ちうる党をつくるためには、何としても破綻した「計画的な党勢拡大路線」を直ちにやめなければならない。「計画的な党勢拡大路線」は党を大きくしたけれども、党を大きくした「その路線」が今日の党勢衰退の原因ともなっていることが、なかなか志位氏にはわからないらしい。志位氏は基礎組織に足を運んで、単なるパフォーマンスではなく、党員大衆の意見をつぶさに聞くことである。
 長年、このような党活動に慣らされた党員は、職場や地域の人々がどのような要求を持っているかにさえ関心がない人が少なくない。ともあれ、現在活動している党員に依拠するよりないのであるから、彼らが職場や地域、学園に目を向け、周りの人々の切実な要求をつかんでいっしょに活動できるように指導、援助することから始めなければならない。職場や地域の人々から疎遠になった支部に活力が存在することはない。逆に、支部や党員が職場や地域の人々と深く結びついたときには必ず生々きと活動するようになる。今回の統一地方選挙でも後退の重要な要因として「党指導部が期待したほど一般党員が動かなかった」ことがあげられるであろう。党幹部は基礎組織に足を運び、なぜ彼らが活動に参加しなかったかをつかまなければならない。

←前のページ もくじ 次のページ→

このページの先頭へ