次に、現行綱領では、日本の戦後における変化の記述から戦後秩序の形成についての記述に移行する中で、サンフランシスコ平和条約の締結と日米安保条約の成立、およびこの二つの条約に体現されるサンフランシスコ体制の確立が一個の画期をなすものとして記述されている。その部分を引用しよう。
「中国革命の勝利など、世界とアジアの情勢の変化に直面して、アメリカ帝国主義は、その目的を達するために、新しい手段をとった。1951年、ソ連と中華人民共和国をのぞいてサンフランシスコ平和条約がむすばれ、同時に日米安全保障条約が締結された。これらの条約は、形式的には日本の独立を認めることで日本国民の民族独立のたたかいをおさえながら、一方では、ポツダム宣言の拘束をまったくすてさり、実際には、日本をアメリカの世界支配の重要拠点としてかため、日本の支配勢力をアメリカ帝国主義により積極的に同調させ、日本の軍国主義を復活・強化することを目的としたものであった。
この二つの条約に法制化されたサンフランシスコ体制は、アメリカにたいする日本の従属的な同盟の体制であると同時に、アメリカ帝国主義と日本独占資本の合作による、戦争準備と人民収奪の体制、日本民族抑圧の体制だった。アメリカ帝国主義の全面的な占領支配は、半占領状態にかわり、日本政府の統治権は以前よりも拡大され、日本はかたちのうえではいちおう主権国家とされたが、民族主権は深く侵害されつづけ、真の独立は回復されなかった。」
このような記述全体が綱領改定案ではなくなっており、そもそも「サンフランシスコ体制」という体制概念自体が消失している。この「サンフランシスコ体制」という言葉は、第1次世界大戦後にドイツで形成された戦勝諸国による支配体制を「ベルサイユ体制」と呼んだことに範をとったものであり、当時、宮本顕治はこれについて次のように述べている。
「サンフランシスコ体制の内容については、いろいろ論議があったわけでありますし、したがって明確に規定しておくということが必要であるという観点からおこなったわけであります。すなわち、アメリカ帝国主義が日本をその世界戦略のアジアにおける拠点にする立場から、このような反ソ、反中国、反共の『講和』体制をつくったという国際的な側面をもっており、同時に、アメリカと日本との関係においては日本がそうした体制にくみいれられることによって沖縄・小笠原をうばわれ、数多くの軍事基地がおかれているというように、従属的な同盟、戦争準備と日本民族抑圧、収奪維持の体制であることを明らかにしたわけです。収奪維持の体制というのは、この体制によって、二つの敵にたいする日本人民の闘争をおさえアメリカ資本の日本にたいする投資その他による搾取、収奪をささえており、同時に、目したの同盟者である日本の独占資本の搾取収奪をささえているということです。この『体制』という用語は、『ベルサイユ体制』という言葉として、かつてから国際共産主義運動の文献のなかで数多くつかわれています。もちろんこれは、経済的社会構成体(ウクラード)の意味でつかっているのではありません。けれども、このような国際的に、国内的に実体的な内容をもつ、たんなる条約的法制的なものでなく、そうした実体的内容の法制化であるという点で、サンフランシスコ体制というものをはっきり定義づけたのであります」(宮本顕治「綱領(草案)について」、『日本革命の展望』上、115~116頁)。
このように、現行綱領にあっては、戦後の日米支配層の支配体制は「サンフランシスコ体制」として厳密に規定されていた。この概念は綱領改定案では消去されているが、不破報告は、またしてもこのことについて何も語っていない。この「消失」は、「サンフランシスコ体制」という概念そのものの否定を意味しているのか、それとも、例によって例のごとく、わかりやすくするために党独自の概念を単に書かなかっただけという理由なのか、まったく不明である。
しかし、おそらく想像できるのは、サンフランシスコ体制という概念が、アメリカ帝国主義と日本独占資本との合作による政治的・階級的支配の体制を意味するところから、後述するように、「全社会的な階級支配」という概念そのものを放逐しようとする不破指導部の志向からして、「サンフランシスコ体制」という概念を維持することは全体として不整合なものになるとみなされたのであろう。このことは、以下の論述でなおいっそう明白なものになる。