階級支配概念の放逐という姿勢を明確に示しているのは、日本の現状規定に関する綱領改定案の記述とそれに関する不破報告の説明である。現行綱領は、日本の現状について次のように規定している。
「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である。わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカ帝国主義ににぎられた事実上の従属国となっている。」
これが綱領改定案では次のようになっている。
「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている。」
大きな違いは二つある。まず第一に、現行綱領における現状規定の前半部分「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である」がまるまる削除されていること、第二に、後半部分に関しては「国土や軍事などの重要な部分を」握っている主体が現行綱領ではアメリカ帝国主義であるが、綱領改定案では単に「アメリカ」になっている。
まず第一の変化について、不破は、報告の中で、それなりの説明を与えている。しかしその説明は非常にわかりにくく、隔靴掻痒の感があり、まるで謎かけのような中身になっている。長くなるがその部分を全体として引用しよう。
「しかし、私たちが、現在、日本の今後の変革と闘争の過程をより現実的、具体的に考えようとすると、この定式化には、不適切な問題点がいろいろ出てきます。
アメリカの対日支配と、大企業・財界の国民支配とは、それぞれに、単純に同列におくことのできない、独自のものがあり、支配の性格、特徴もおのずから違います。
また、この規定では、日本の国内的な支配関係を、すべて「日本独占資本の支配」という言葉で表現しているのですが、この用語には、独特の難しさがあります。それは、大企業・財界が経済の分野でおこなっている経済的支配も、大企業と結びついた政治勢力による政治的支配とその構造も、すべてが「日本独占資本の支配」という言葉で表現される、という用語法になっているのです。そのために、日米安保条約を結んだのも、日本の側では、日本独占資本だということになっています。
しかし、政治を支配しているのも大企業・財界を代表する勢力ではないか、といっても、政治的支配と経済的支配とは、実態も違えば、それを打破する方法も違います。また、たとえば、いわゆる政・官・財の癒着に反対するたたかいでは、この性格の違いが、重要な意味をもってきます。
こういう点を考えて、改定案では、日本の情勢の基本規定としては、高度に発達した資本主義国およびアメリカの事実上の従属国という二つの側面を規定したものを、名実ともに情勢規定の中心命題として、基本的な支配勢力についての規定は、とりのぞくことにしました。
また、日本の情勢を分析する用語の問題としても、『日本独占資本』という、政治的支配勢力と経済的支配勢力を区別せず、事実上二重の意味をもたせた用語を使うことはやめ、全体を実態に即した表現にあらためました」。
読者は一読して非常にわかりにくく感じるだろう。なぜなら、たとえば、「アメリカの対日支配と、大企業・財界の国民支配とは、それぞれに、単純に同列におくことのできない、独自のものがあり、支配の性格、特徴もおのずから違」うと言いながら、どう違うのか、どういう点で独自のものがあるのか、何も語られていないからである。常識的に考えれば、アメリカ帝国主義による対日支配は、抑圧民族による帝国主義的民族支配で、独占資本による支配は典型的な階級支配である、という答えが出てきそうであるが、そのような常識レベルでの違いを問題にしているとは思われない。また、「政治的支配と経済的支配とは、実態も違えば、それを打破する方法も違います」と言いながら、ここでもどのような実態が違うのか、その「打破する方法」はどう違うのかについても、何も語られていない。政治的支配と経済的支配に違いがあるのは当然であり、そこにもことさら何か問題すべき論点があるとは思われない。そして、こうしたわけのわからぬ理由づけをした上で、「アメリカ帝国主義と日本独占資本による支配」という文章を削り、「日本独占資本」という用語さえも削ると結論されているのだから、まったく読者にとってはちんぷんかんぷんであろう。
謎を解く鍵の一つは、不破が日本独占資本に代わる「実態に即した表現」として、次のように述べていることにある。
「改定案では、用語の上では、経済体制については、『独占資本主義』あるいは『日本独占資本主義』の言葉を、階級的な支配勢力については、『大企業・財界』という言葉を、主に使っています。大企業・財界と政治支配との関係については、『少数の大企業は、……日本政府をその強い影響のもとに置き、国家機構の全体を自分たちの階級的利益の実現のために最大限に活用してきた』(第六節・最初の段落)とか、『日本政府は、大企業・財界を代弁して、大企業の利益優先の経済・財政政策を続けてきた』(同じく六つ目の段落)など、政治と経済の区別をしたうえで、その密接な関係を実際に即して表現するようにしています」。
あたかも階級支配からあらかじめ独立して存在している日本政府なるものに、外部から大企業・財界が影響を与え活用しているかのようである。日本政府の構成が変わりさえすれば、大企業・財界の影響から脱して、そのままその出来合いの国家機構を別の階級的利益のために「活用」できるかのようである。
さらにもう一つの鍵は、7月14日に志位委員長が綱領改定案について日本記者クラブで行なった講演での質疑応答である。その中で志位は次のように答えている。
「改定案では大企業・財界による横暴な支配を打破して、民主的なルールある経済社会をつくることを目標にしているが、大企業・財界の存在を否定しているものではないこと、大企業が社会的責任を果たすことは日本経済全体の発展にもつながるとのべ、『立場は違っても、財界と対話と相互理解をしていくのは有益だと考えています』」(7月15日付『しんぶん赤旗』)。
財界との相互理解! もちろんこのようなことを言い出したのは、今回が初めてではない。98年以降の不破=志位指導部の路線にはすでに財界との半永久的な共存共栄路線が示唆されていた。
以上の発言等にもとづくなら、不破指導部がイメージしている社会像、変革像がはっきりと見えてくる。
一方で大企業・財界に代表される経済的支配勢力(土台)が存在し、他方ではそれとは独立に、それ自体としては階級的に中立な日本政府とその国家機構(上部構造)が存在する。経済的支配勢力は、この政府に強い影響を及ぼし、その国家機構を自分たちの階級的利益の実現のために活用している。これが「政治的支配」と呼ばれるものである。したがって、ここで問題になる「民主的変革」とは、日本独占資本の全社会的な(すなわち、政治的、経済的、文化的な)階級的支配を打倒することでもなければ、階級的な旧国家機構を粉砕することでもない。国民の利益を代表する別の勢力が選挙を通じて政府を握り、経済的支配勢力の政治的影響力を排除し、出来合いの国家機構を別の階級的利益のために活用する、これが政治的支配の「打破」と呼ばれているものである。しかし、経済的支配勢力(大企業・財界)はそのまま存在し続け、引き続き独占資本は労働者を収奪し搾取する。民主連合政府は経済領域での独占資本の支配と長期にわたって共存共栄していくが(財界との相互理解!)、独占資本の搾取と収奪に一定のルールを課す。これが「経済的支配の打破」ないし「横暴な支配の打破」と呼ばれるものである(実際には「打破」でも何でもないのだが)。この場合、土台が上部構造を規定するというマルクス主義の基本原則はどうなるのか、という疑問が生じるが、もちろん不破は何も答えてくれない。
つまり、政治的支配と経済的支配との区別論は、「民主主義革命」後もただ日本独占資本による政治的支配(正確には政治的影響力)のみを排除し、経済的な階級支配のほうは不問にし、経済領域では引き続き独占資本が支配する状況を容認するための布石なのである。
同じことは、「アメリカの対日支配と日本独占資本の国民支配との違い」という議論にもあてはまる。アメリカの対日支配の打破とは、安保条約を廃棄し米軍基地を撤去することであり、それは「支配の打破」というイメージに比較的近い(後述するように、この面でも実は問題設定の転換が見られるのだが)。しかし、日本独占資本に関しては事情が違う。独占資本は引き続き日本経済を(ルールにもとづいて)支配し続けるのである。だから、両者を同列に並べることはできない、とされているのである。
以上のような社会観や変革イメージは、基本的に伝統的な社会民主主義の立場と何ら変わらない。かつて共産党は、ヨーロッパの社会民主主義政権を批判するにあたって、なるほど福祉は充実しているかもしれないが、独占資本の支配と搾取は続いているではないか、福祉国家は結局、独占資本主義の維持と発展に寄与しているではないか、と主張してきた。今では、共産党は完全に社会民主主義の軍門に下ろうとしている。しかも、きわめてタイミングの悪いときに!
60年代や70年代の高度成長期ならば、現在の党指導部が掲げる「民主的改革」のかなりの部分はまだ政治的に実現可能であったかもしれない。なぜならそのときには、先進諸国の独占資本は福祉国家的な統合に一定の利益を見出していたからである。しかしながら、今ではヨーロッパでさえ、経済の低成長とグローバル資本主義のもとで、独占資本主義と福祉国家とはあいいれなくなり、独占資本は福祉国家を本格的に解体しようとしている。経済的な階級支配をそのままにしておいて、政府の政策のみを労働者本位のものにしようとする試みは、今では完全な限界にぶつかっている。そもそも本格的な福祉国家が構築されたことのない日本ではなおさらである。にもかかわらず、不破指導部は、数十年遅れで、しかも今や現実的根拠をもたなくなった社会民主主義の軍門に下ろうとしているのである(科学的社会主義から空想的社会民主主義への日本共産党の「発展」!)。
政治的支配と経済的支配との区別という口実のもとに「アメリカ帝国主義と日本独占資本による支配」という現状規定や「日本独占資本」という概念そのものが放棄されたのは、まさに「独占資本の全社会的支配の打破」という現行綱領の革命的見地を投げ捨て、経済的には独占資本の支配を維持したままで、ただ選挙を通じて政府の構成と政策だけを変えるという議会主義的・社会民主主義的路線に公式に転換するためだったのである。
ちなみに、この「政治的支配と経済的支配との区別論」は、後述する「日本の帝国主義的復活強化」を否定する議論にも深くかかわっている。