綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(上)

15、日本の現状規定(2)
――帝国主義概念の否定

 次に、現行綱領で「アメリカ帝国主義」と表記されているものが、「アメリカ」に変更されている点についてだが、不破は報告の中で次のように述べている。

 「いま引用したように、改定案では、アメリカの対日支配が、『帝国主義的な性格』をもっていることを、明確な言葉で指摘しています。ただ、用語の点では、いまの綱領の『アメリカ帝国主義』の対日支配などの表現を、『アメリカ』の対日支配という表現にあらためました。これは、今日の世界では、『帝国主義』という言葉を、より吟味して使う必要が出てきたためであって、その問題は、内容的には、第3章の世界情勢論のところで説明をしたいと思います」。

 そこで、少し先回りすることになるが、第3章の該当部分を見てみよう。そこではこう述べられている。

 「その対日支配を終結させることは、アメリカが独占資本主義の体制のままでも、実現可能な目標だと、私たちは考えています。そして、安保条約が廃棄されたあと、アメリカがこの事実を受け入れて、日米間の友好関係が確立されるならば、帝国主義的な要素の入り込まない日米関係が成立しうる、私たちは、そういう展望をもっています。第2章の日本の現状規定で、私たちが、アメリカ帝国主義という用語を使わなかったのは、そういう見地からであります。」

 アメリカが独占資本主義体制のままで対日関係で帝国主義的な態度をとらないようになりうる、という認識自体、驚くべき修正主義的意見だが、この問題については、第3章を論じるときに論じよう。ここで重要なのは、ここで述べられているような説明が、日本支配の主体を「アメリカ帝国主義」ではなく、「アメリカ」と表記する理由になるのか、ということである。むしろ逆ではないだろうか? 不破の説明によれば、アメリカの日本支配のあり方からして、その関係が帝国主義的なものであると言えるのだから、支配の主体はやはりアメリカではなく、アメリカ帝国主義でなければならないはずである。アメリカが帝国主義的でなくなったときにはその対日支配もなくなるのだから、アメリカの将来を固定的に見ないのであればなおさら、「アメリカ」という普遍的な名称ではなく、「アメリカ帝国主義」という特殊な名詞が支配の主体にならなければならないはずである。
 実際には、不破が綱領改定案の第2章で日本支配の主体として「アメリカ帝国主義」という用語を避けているのは、そもそも「アメリカ帝国主義」という実体的な支配勢力が存在するというレーニン主義的前提を否定しているからである。レーニン主義においては、「帝国主義」とはあれこれの国が取る諸政策の総和ではなく、資本主義の特定の段階規定であり、帝国主義の段階に達した国家は「帝国主義」ないし「帝国主義国」という実体的規定を帯びる。現行綱領においては、すでに成立している「アメリカ帝国主義」という階級的で主体的な存在が日本を従属させている、というレーニン主義的構図にもとづいている。だが、不破は今や、後でより詳しく述べるように、帝国主義をあれこれの政策の総和であるとみなしている(かつて彼は党の幹部として、このようなカウツキー主義的概念を口をきわめて罵倒してきたのだが!)。つまり、帝国主義的な政策や帝国主義的な関係というのはありえても、「帝国主義」という階級的な主体は存在しないのである。
 「日本独占資本」という階級的主体概念が否定されたのと同じく、ここでは「アメリカ帝国主義」という階級的主体概念も否定されている。こうして、「二つの敵」という発想も根本的に否定される。『さざ波通信』のある読者が指摘しているように、「二つの敵」を「一つ」ないし「一つ半」の敵に格下げしたというよりも、不破指導部は階級的な意味での「敵」という概念そのものを否定しているのである。不破指導部にとってはもはや、アメリカ帝国主義も日本独占資本も「敵」ではない。それらは種々の政策や行動を通じて「日本国民」の利益に反することを行なっているだけであり、それは「階級的支配」や「帝国主義的支配」という何らかの総体的で実体的なシステムを形成しているわけではない。したがってまた、「二つの敵の支配の打破」という概念も基本的には存在しない。ただ個々の悪い行動(日本に関わるかぎりで)をやめさせることだけが課題となる(引きつづきそれは「支配の打破」と称されているとはいえ)。
 なお「帝国主義」一般の問題については、第3章を論じるときにもっと詳しく論じる。

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