綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(上)

18、日本の帝国主義的復活の否定(2)
――社会帝国主義的変質

 以上の概観から明らかなように、この帝国主義的復活の問題は、綱領論争以来の古い歴史を持ち、文字通りの党の共通財産であり、40年以上におよぶ集団的な理論的検討と実践の蓄積を備えている問題である。ところが、今回の綱領改定案において、この帝国主義的復活・強化にかかわる記述がすべて削除され、「日本独占資本の帝国主義的対外進出に反対」するという行動綱領も削除されてしまった。これは綱領の根本的な大改悪であり、反帝国主義の党としての歴史と伝統を真っ向から踏みにじる暴挙である。
 不破は、この削除について次のように説明している。

 「対外活動の問題では、私たちは、これまでの綱領では、日本の独占資本主義が独占資本主義として復活・強化してゆけばゆくほど、その活動が帝国主義的な特徴、性格を強めてゆく、という見方に立っていました。1961年に採択した最初の文章では、『日本独占資本は、……経済的には帝国主義的特徴をそなえつつ、軍国主義的帝国主義的復活のみちをすすんでいる』とありました。1994年に改定した現在の綱領では、『日本独占資本は、海外市場への商品、資本のよりいっそうの進出をめざし、アメリカの世界戦略にわが国をむすびつけつつ、軍国主義、帝国主義の復活・強化の道をすすんでいる』という規定をおこないました。
 この規定の根底には、独占資本主義として復活・強化すれば、その対外活動は、必然的に帝国主義的な性格をもってくる、また、独占資本主義の段階での商品、資本の海外進出は、経済的な帝国主義の役割をする、こういう見方がありました。この見方は、20世紀のある時期までは成り立つものでしたが、いまでは、世界経済の現実には合わなくなっています。
 実際、アジア諸国が、日本の対外活動について警戒の目を向けているのも、日本の大企業の経済活動ではなく、軍国主義の復活につながる日本の対外活動であります。大企業・財界の対外的な経済進出にたいしては、そのなかの問題点について、個々の批判はあっても、対外進出そのものについての批判や告発はありません。これは、偶然ではありません。
 現在の世界の政治・経済の情勢のもとでは、独占資本主義国からの資本の輸出、即“経済的帝国主義”とはいえない状況が展開しているわけです。ですから、日本の大企業や政府のかかわる対外活動で、進出先の国の経済主権を侵すような抑圧的な性格の行動が問題になるとしたら、それは、事実の具体的な調査にもとづいて批判し告発することが、求められるものであります。
 そういう意味で、この綱領改定案では、日本独占資本主義の対外活動を分析するさい、帝国主義の復活・強化という角度からの記述はやめ、問題点は、軍国主義の復活・強化という側面からとらえる、という規定づけにあらためました。
 この問題の、より詳しい内容的な説明は、さきほどのアメリカ帝国主義の問題とあわせて、第3章でおこないたい、と思います。」

 以上が第2章での説明である。第3章の部分では以下のように言われている。

 「私たちは、いまの綱領でも、日本の現状を帝国主義とは規定していません。しかし、さきほど、61年および94年の時点での綱領の文章を引用したように、独占資本主義として復活・強化の道をすすんでゆけば、それはおのずから帝国主義的な発展に結びつく、こういう見方がありました。
 しかし、日本独占資本主義と日本政府の対外活動に、帝国主義的、あるいは他民族抑圧的な、侵略的な要素があるかないかという問題は、独占資本主義の復活・強化がどこまですすんできたかという基準によってではなく、日本の大企業・財界および日本政府の政策と行動の全体を、事実にもとづいて調査・点検し、それにもとづいて判断してゆくことが、重要であります。
 以上が、帝国主義の概念をめぐる理論問題について、私たちがいま到達している考え方であります。」

 「私たちがいま到達している考え方」とはよく言ったものだ。この問題に関するこれまでの長い長い歴史をすべてあっさりと否定して(しかも過去の立場についての説明は何もなく)、今回はじめて脈絡もなしに出てきたこのとんでもない考えを「私たちがいま到達している考え方」だとは!
 まずもって、日本独占資本の対外進出が帝国主義的な性格を帯びるという考えは「20世紀のある時期までは成り立つもの」であったが、「いまでは、世界経済の現実には合わなくなってい」ると不破は断言する。「20世紀のある時期」とはいつの時期なのか、その時期にはどうしてどのような意味で成り立っていたのか、そしてなぜどのような意味で、いまでは世界経済の現実に合わなくなったのか、このことについて不破は何も説明しない。あまりにもひどい説明ではあるまいか? 
 不破は続けて次のように述べている。

「アジア諸国が、日本の対外活動について警戒の目を向けているのも、日本の大企業の経済活動ではなく、軍国主義の復活につながる日本の対外活動であります。大企業・財界の対外的な経済進出にたいしては、そのなかの問題点について、個々の批判はあっても、対外進出そのものについての批判や告発はありません」。

 つまり、ここでも不破は、例の「政治と経済との区分」という議論を持ち出して、政治的な意味で軍国主義復活につながるような対外進出は悪だが、純経済的な意味での独占資本の対外進出は、それ自体として悪ではないというわけである。しかしそれにしても、アジア諸国から「個々の批判はあっても、対外進出そのものについての批判や告発はありません」と述べているのは、あまりにもひどい。なるほど、共産党の野党外交の相手となった高級官僚たちは、日本の多国籍企業の進出に感謝こそすれ、けっして非難することはなかったろう。日本共産党の「野党外交」そのものが、日本の帝国主義的地位に依拠した傲慢で帝国主義的なものであるとわれわれは批判してきたが、まさにその結果として、不破指導部は、日本企業の多国籍的進出そのものを擁護し美化する存在に成り果てたのである。たしかにそれは「偶然ではない」。
 さらに、党の経済理論家である友寄英隆の7中総での発言は、この問題に関する党指導部の本音を知るうえで非常に重要である。それは、彼らがどれほどまでに徹底的に堕落しているかを示す絶好の材料になっている。

 「従来は、独占資本主義の侵略的な指標として、資本輸出とか、海外からの超過利潤があげられていましたが、いまは、単純にそうは言えなくなってきています。……このように資本の海外進出は、急激に進んでいるのですが、それは従来と違って、発展途上国の経済成長を非常に促進しています。先進国の資本を積極的に導入し、活用しながら経済を発展させている。その典型的な例が、アジア、中国だと思います」。

 つまり、従来と何が違うかというと、資本の海外進出が「発展途上国の経済成長を非常に促進して」いるという点が違うのだそうだ。すると、それ以前の資本の海外進出は、進出先の経済成長を促進しなかったということになる。驚くべき発見だ! どの時代でも、資本の対外進出は、進出先の経済をそれなりに発展させてきた。ただし、それには、貧富の差の拡大、環境と生態系の破壊、庶民の生活破壊、天然資源の乱開発と収奪、先進国への富の大量流出、低賃金と労働苦の蔓延、農業などの伝統的産業の没落と荒廃、買弁ブルジョアジーの育成、進出先の現地労働者(および周辺住民)への差別と抑圧と搾取、現地に派遣された本国ビジネスマン向けの性産業の発展、などが必然的にともなった。
 このことは日本の多国籍企業的進出にもあてはまる。アジア諸国に進出している日本企業の現地派遣ビジネスマンが、貴族のような生活をし、現地の女性を買いあさり、まさに帝国主義の尖兵として振舞っていることは、現地の人々の大きな怒りを買っている。
 ところが、わが日本共産党指導部は、日本企業の経済進出は進出先の経済を成長させているから帝国主義的ではないのだ、と公然と言い放ったのである。これを社会帝国主義的堕落と呼ばずしてなんと呼ぶのか?
   ところで不破は、先に引用した説明の中で次のように述べている。

 「日本独占資本主義と日本政府の対外活動に、帝国主義的、あるいは他民族抑圧的な、侵略的な要素があるかないかという問題は、独占資本主義の復活・強化がどこまですすんできたかという基準によってではなく、日本の大企業・財界および日本政府の政策と行動の全体を、事実にもとづいて調査・点検し、それにもとづいて判断してゆくことが、重要であります」。
 たしかに、これまでの日本共産党の経済的な意味での「帝国主義復活論」は抽象的であり、「独占資本主義の復活・強化がどこまですすんできたか」という問題にすり替えがちであった。これは事実であり、これはわが党の重大な弱点である。進出先の国々に赤旗特派員を派遣して、いかに多国籍企業が現地の人々の生活と環境を破壊し脅かしているか、いかにこれらの多国籍企業が現地の経済発展をゆがめ、資源収奪を行なっているかを詳細に調査し分析するべきだったのに、共産党はそうした努力をほとんど怠ってきた。そしてその責任は何よりも、この30年間ずっと共産党の指導者であった不破にある
 ※注 不破はこれまで何冊も日本共産党綱領についての解説本を出しており、その中で日本の帝国主義的・軍国主義的復活の問題にもそれなりの頁を割いている(たとえば、不破哲三『講座 日本共産党の綱領路線』、新日本出版社、1984年、45~58頁。同『日本共産党綱領と歴史の検証』、新日本出版社、1991年、54頁。同『綱領路線の今日的発展』上、新日本出版社、1995年、128~131頁、など。ちなみに、この最後の文献では「日本独占資本の帝国主義的復活の問題でも、党綱領はその見通しの正しさを明らかにした」(129頁)と高らかに宣言されている。わずか8年前に正しかったと宣言された見通しが、今日では全面的に否定されているのである)。しかし、そのいずれも、日本の帝国主義的復活の問題は日本独占資本主義の経済発展の問題に矮小化され、結局は「しかしそれでも日本が帝国主義的に自立の方向に向かっているわけではない、したがって、対米従属を規定したわが党の綱領は正しかった」という自画自賛的説明に終始するという構造になっている。つまり、不破が「帝国主義的復活」について語るのは、それ自体のもつ問題性ゆえにではなく、それでも日本は自立帝国主義化していない、したがって綱領は正しかったということをただ言いたいがためなのである。

 では不破よ、「事実にもとづいて調査・点検し、それにもとづいて判断」した結果はどうだったのか? 「日本独占資本主義と日本政府の対外活動に、帝国主義的、あるいは他民族抑圧的な、侵略的な要素がある」のかないのか、いったいどうなのか? 日本がついに自衛隊の地上軍まで派遣して本格的な他民族抑圧に乗り出そうとしているのに、それでもなお、日本の帝国主義的復活を否定するのか?
 わが党指導部が日本の帝国主義復活強化の事実を公然と否定し、日本企業の多国籍的進出を美化するまでにいたったことは、この党の社会帝国主義的変質を最もはっきりと示すものである。そして、共産党が日本の帝国主義的復活を否定するという形で社会帝国主義的変質にいたったことは、逆説的ながら、日本の帝国主義化を示す最も重要な指標である。なぜなら、レーニンが繰り返し言ったように、帝国主義化には、労働運動と社会主義政党の反動化、自国帝国主義への屈服と迎合を伴うからである。かくして、日本は、周辺事態法の成立、有事立法の成立、自衛隊の海外派兵法の成立に続いて、主要な社会主義政党の完全な社会帝国主義的変質という形で、帝国主義と呼ぶにふさわしい上部構造を十分に備えるにいたったのである。
 ところで、不破が、経済的な意味での帝国主義的復活という概念を完全に否定し(政治的な意味では「軍国主義的復活」という形で綱領改定案にも部分的に残されている)、多国籍企業の対外進出を帝国主義的なものではないと強弁しているのはなぜだろうか? 不破の民族主義的本質、中国への配慮、野党外交にいかれてしまったから、などの理由はいずれもその通りであろう。しかし、もっと重要なのは、この議論が、明らかに政権入り後の日本共産党の政策とかかわっているということである。つまり、民主連合政府下においても、独占資本による国内の経済支配が容認されるのと同じく、独占資本による多国籍企業的対外進出も容認され、推進されるということである。独占資本の対外進出を「帝国主義的なもの」と言ってしまえば、政権入りしたときに、それに反対しなければならなくなる。そこで、政権からはるかに遠い今の時点から、そのような齟齬や矛盾をきたさないように、大企業の多国籍的対外進出は進出先の国々に歓迎されているし、その国々の経済発展をもたらす進歩的なものであると規定しておく必要があったのである。
 では、綱領改定案にもとづくなら、民主連合政府下の日本とはいかなる体制になるのだろうか? それはアメリカ帝国主義への従属から脱しているが、独占資本の対外進出はいっそうのびのびと展開されるので、経済的には自立帝国主義国である。しかし、政治的には、安保が廃棄され、自衛隊の海外派兵もなくなる「予定」なので、非帝国主義国である。つまり、簡潔に表現すれば、民主連合政府下の日本は、「経済的には帝国主義の特徴を帯びた自立した独占資本主義国」という規定になるだろう。61年綱領における日本の現状規定と異なるのは、「従属」が「自立」になっていることだけである(もっとも、不破の率いる「民主連合政府」がアメリカ帝国主義からの独立という革命的課題を達成することは、絶対にありえないが)。

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