綱領改定案をめぐるトピックス(再録)

 以下の一連の記事は、綱領改定案に関するトピックスでの論評を再録したものです。

(03.6.22)天皇制・自衛隊を事実上容認した新綱領案が発表
 すでに各種の報道、および『しんぶん赤旗』に掲載された新綱領案から明らかなように、日本共産党指導部は、7中総において、ついに不破=志位路線の集大成とも言うべき新綱領案を発表し、事実上、宮本顕治の指導のもとに作成された61年綱領を廃棄しようとしている。
 その内容の詳細な分析・批判については、次号の『さざ波通信』で行なう予定であるが、いくつか重要な点にのみ言及しておく。まずもって一般マスコミも注目したように、「君主制の廃止」要求がなくなり、「情勢が熟したときに、国民の総意によって解決される」という形で、事実上、天皇制の存続が容認されるに至ったことである。『しんぶん赤旗』で報じられた不破報告によると、現在の日本の天皇制は「君主制の一種」ではないらしい。ではそれはいったい何なのか? どんな形であれ君主制が存在しないとしたら、日本はいつから共和制になったのか? いずれにせよ、今回の新綱領案が次期大会で正式に採択されたならば、天皇制の廃止を主張する政党は事実上日本の国会から存在しなくなることになる。党創立以来、80年にわたって天皇制を認めてこなかった誇るべき歴史と伝統が、不破指導部の手で最終的に清算されようとしている。
 同じく、自衛隊に関しても、「自衛隊の解散」を要求する項目がなくなり、アジア情勢をふまえつつ自衛隊の解消へ向かって「前進をはかる」ことだけが新綱領案ではうたわれている。「前進をはかれ」ばそれでいいのだから、これもまた自衛隊の半永久的存続論である。
 また帝国主義に関しても、不破報告によると、資本主義の本質的な段階規定ではなくなり、侵略的な政策体系に還元され(カウツキー!)、世界ではかろうじてアメリカだけが帝国主義的と呼べる政策を実施しているとされている。つまり、多くの左翼が夢見てきた世界帝国主義の打倒は、少なくともアメリカを除いては、いつのまにか実現されていたというわけである。すなわち、帝国主義の定義をきわめて狭いものに変えることによって、世界に帝国主義国などほとんど存在しないとされたのである。
 これにともなって、日本を支配している基本勢力という概念そのものがなくなり、アメリカ帝国主義とそれに従属した日本独占資本が日本を基本的に支配しているという規定が一掃され、アメリカの対日支配や、大企業の横暴な支配、というあいまいな言葉に置き換えられている。またそれと同時に「サンフランシスコ体制」という概念も、その打破という目標もなくなった。こうして61年綱領の核心的部分が廃棄された。
 同じく、61綱領以来の日本の「帝国主義的復活」という表現が完全に一掃され、「軍国主義の復活」という表現に一元化されている。周辺事態法も、インド洋への自衛隊の派遣も、イラクへの自衛隊の派遣も、有事立法も、日本資本主義の多国籍的進出もすべて、帝国主義的復活とはみなされなくなったわけである。
 行動綱領に関わる部分では、弾圧立法の廃止をはじめ多くの重要な要求が消し去られたが、とりわけ部落問題、アイヌ問題など、日本におけるマイノリティ差別に関わる要求はすべて一掃された。農漁民をはじめとする人民各層の要求実現の諸項目はほとんどないし完全になくなり、下からの闘争課題としてではなく、単に上からの政策課題としてのみ部分的に残っているにすぎない(たとえば、「農林水産政策」の「根本的転換」など)。さらに、憲法に関しては、はじめて「全条項」(つまり天皇条項を含む)を守るという立場が表明され、この面でも天皇制の容認をはっきりとさせた。また、行動綱領では多くの進歩的条項が削除されながら、全千島と歯舞・色丹の返還という領土的要求だけはしっかりと残されている。
 革命の戦略に関しては、「資本主義の枠内での民主的改革」が正式に民主主義革命と等置されるにいたり、「民族民主統一戦線」や「民族民主統一戦線政府」、さらには「統一戦線政府」と「革命の政府」の区別などがすべて一掃され、民主連合政府が民主主義革命の政府であるとされるにいたった。これはまさに、民主主義革命なるものが「革命」でもなんでもないものに矮小化されたことの端的な現われである。それにともなって、「反帝反独占の人民の民主主義革命」という規定もなくなった。そもそも「人民」という言葉自体が一掃された。
 社会主義、共産主義の章に関しては、ついに「労働者階級の権力」という社会主義革命の決定的契機が削除され、社会主義革命は単に「主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す」こととされている。また、社会主義社会と共産主義社会との伝統的な区分論がなくなり、「社会主義・共産主義社会」という表現に一元化されている。両者を区別する必要がないとしたら、どうして「共産主義」という表現を残すのか不明であろう。これは党名問題にも関わってくる。
 また、社会化するのは生産手段だけで、生活手段については「この社会のあらゆる発展段階を通じて、私有財産が保障される」という新規定が入っている。もちろん、一般の勤労人民の「個人的な生活手段」を社会化することは問題になりえない。だが、現在の資本主義社会であっても、多くの生活手段はすでに「社会化」されている。たとえば、公共の図書館は、本という生活手段を社会化している。公共の住宅は、住居という最も重要な生活手段を社会化したものである。公共の教育・医療、公共の交通機関などもみな、社会化された生活手段の一部である。社会主義や共産主義を名乗る勢力ならば、このような公共的な生活手段の領域をできるだけ拡大すること(「社会的な所有」と「個人的な占有」との結合)を当然の目標にしている。実際、現在、ヨーロッパ各国では、公共サービスの擁護とその拡大のための大衆的闘争が系統的に取り組まれている。にもかかわらず、限定抜きに生活手段全般を永遠に私有財産制のもとに置くことを公言している新綱領案は、はっきり言って現在の日本資本主義よりも資本主義的であり、ましてやヨーロッパの社会民主主義勢力よりもはるかに資本主義的である。
 不破指導部は、このような改良主義的新綱領によって、次の選挙で票を伸ばすことを期待している。また、『さざ波通信』への投稿者の一部にも、そのような「現実主義化」によって日本政治への現実的な関与が可能になると信じている人々が少なからずいる。だが、そのような偽りの現実主義化の実験はすでに、日本社会党というかつての最大野党、最大の革新政党を通じて全面的な形で実施されている。もし、綱領や政策の右傾化、現実追認化によって現実変革がより容易になるのなら、どうしてそれを今から10年前に実行した社会党は、最大野党から共産党より小さい政党に成り下がったのか? なぜそのとき、社会党を左から批判していた共産党は躍進を経験し、一時期は、800万票以上を集める大政党になりえたのか、なぜ、不破の現実主義路線がより露骨に採用されたのちに、この拡大傾向が逆転し、半減するに至ったのか?
 そもそも綱領とは、当面する選挙の票にプラスになるかどうかという狭い目的で制定されるものではない。しかし、そのようなプラグマチックな目的に限ってみたとしても、今回の新綱領案が正式に採択されたことで選挙で前進できると考えるのはまったくの幻想であろう。どんな綱領、どんな政策であっても指導部に盲目的に従い、言われたとおりの活動をすることのできる党員ばかりではないことを知るべきである。この新綱領は、党の中の最も原則的、左派的、良心的な部分のさらなる幻滅と離反をもたらすだろう。それは長期的に党の屋台骨をしだいに侵食し、党を根本的に空洞化するだろう。(S・T編集部員)

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