不破報告の反動性は、帝国主義諸国の対立問題に関しても見ることができる。
「問題は、そういう立場で考えたときに、『独占資本主義=帝国主義』という旧来の見方で世界を見てよいだろうか、という問題です。最近でも、イラク戦争の問題をめぐって、独占資本主義国のあいだで、先制攻撃戦争という道に国連無視で踏み出したアメリカ、イギリスと、これに反対するフランス、ドイツが対立しました。この対立を、帝国主義陣営内部の対立、矛盾と見てすむか、そうではなくなっているというところに、世界情勢の今日の変化があるのではないでしょうか」。
この不破報告全体がそうだが、説明するべきところを説明なしにすます場合が非常に多い。ここでも、イラク戦争をめぐる米英と独仏との対立が「帝国主義陣営内部の対立、矛盾と見てすむか、そうではなくなっているというところに、世界情勢の今日の変化があるのではないでしょうか」と問題を投げかけるのみで、まったく何の説明も回答も与えていない。まずイラク戦争をめぐる対立が「帝国主義陣営内部の対立」で「なくなっている」理由やそう言える根拠について一言も述べられていないし、「帝国主義陣営内部の対立」でないとしたらそれはいったい何のなのか(侵略国家と平和国家との対立?)についても何も言われていない。
かろうじて想像できるのは、ここでも戦後における植民地体制の崩壊が、もはや独占資本主義間の対立を帝国主義内部の対立と言えないとする唯一の理由であるということであろう。ところが、とっくに古典的な植民地体制が崩壊していたはずの1960年代において、日本共産党自身は何と言っていたか? フルシチョフ修正主義を厳しく批判していた当時のわが党は、「ケネディとアメリカ帝国主義」(『アカハタ』1964年3月10日)という重要論文の中で、戦後世界の変化(社会主義体制の成長、植民地体制の崩壊、平和、民主勢力の強大化など)というまさに不破と同じ理由で独占資本主義が非帝国主義的になっているというフルシチョフ派の議論(「両翼分化論」)を批判して、次のように述べている。
「一見もっともらしい体裁をととのえたこの種の議論は、現在の国際情勢と帝国主義の本質とにたいするまったく誤った評価にもとづく最悪の日和見主義であって、マルクス・レーニン主義となんの共通点もない修正主義理論である。
第一にこの『両翼分化論』は、同じ独占資本主義という経済的土台の上に、ある場合には帝国主義的な冷戦政策が、他の場合には非帝国主義的な平和共存政策が成立しうるとするカウツキー流の帝国主義弁護論にほかならない」。
つまり日本共産党自身が、不破報告のような立場を「最悪の日和見主義」「マルクス・レーニン主義となんの共通点もない修正主義理論」「カウツキー流の帝国主義弁護論」であるとみなし、そのように公然と断罪していたのである。
もし今回の不破報告が正しいと強弁するなら、「ケネディとアメリカ帝国主義」をはじめとするこの時期の一連の国際問題論文をすべて否定し、公然と自己批判し、フルシチョフ修正主義の再評価をするべきだろう。そして、戦後の日本共産党の国際路線が誤謬の連続であったと告白するべきだろう。
さらに、同じ「ケネディとアメリカ帝国主義」は、帝国主義内部の対立をあたかも帝国主義と非帝国主義との対立であるかのようにみなす議論を次のように厳しく断罪している。
「しかし敵のあいだの意見の分化や対立の評価をゆきすぎたあまり、それを冷戦政策と平和共存政策との本質的な対立であるとみなすに至るならば、それは『敵のあいだの利害の対立』を敵と味方とのあいだの越えることのできない対立と同列視し、敵の内部矛盾を根本的な階級的矛盾と同列視するという、比較にならないほど大きな誤りとなる。なぜなら、帝国主義者のあいだの意見の分化とは、本質的には、あくまでも帝国主義という同じ経済的土台に照応した範囲内での、社会主義に敵対し、労働者階級と植民地従属国の人民を抑圧し搾取する階級的本質の範囲内における、敵のあいだの部分的な意見の衝突と利害の対立にすぎず、戦争と侵略、抑圧と反動という帝国主義政策をどちらの政策がもっともうまく遂行することができるか、どちらの独占グループに最大の利益をもたらすように推進することができるか等々についての戦略と戦術、方向と形態などの差異でしかないからである」。
「こうした部分的対立がそれをめぐる闘争を激化し、しばしばケネディの暗殺のような醜悪な死闘を生み出すとしても、そのことを理由としてその部分的対立を、戦争と侵略の政策にたいする平和と民主主義の政策の根本的対立にかかわるものとみなすことは、独占資本主義という経済的土台の上に帝国主義政策と非帝国主義政策とがともに成立しうること、独占資本主義が非帝国主義政策と両立しうることを主張する議論に帰着する。
こうした主張こそ、『政治における独占主義を経済における独占主義から切りはなす』(レーニン『帝国主義と社会主義の分裂』、全集23巻 114ページ)ものであり、帝国主義を『資本主義の発展段階』ではなく、金融資本によって『このんでもちいられる』一定の政策とみなすカウツキーの帝国主義論の再版にほかならない」。
この文章はまるで今回の不破報告を断罪するために書かれたかのようである。だが、実際には不破報告は、この時のフルシチョフ理論よりもなおひどい。この時のフルシチョフ修正主義においては、「社会主義」世界体制の存在というものに重要な根拠が置かれていた。ところが、この「社会主義」世界体制が崩壊し、帝国主義の手を縛る重要な一要因(ソ連東欧は、一方ではたしかに帝国主義の侵略政策に有利になるような種々の誤りを犯したが、ベトナム人民への国際的支援に見られるように、他方では重要な抑止要因でもあった)がなくなった。これによってますます、独占資本主義国にとってその帝国主義的本質を発揮しやすい国際環境が生まれた。ユーゴ空爆が、アメリカ帝国主義の単独行為としてではなく、ヨーロッパ諸国の参加のもとに遂行されたことは、その典型的な事例である。アフガン空爆でも、ヨーロッパ諸国がそれを支持する立場に立ったことも、もう一つの事例である。
イラク戦争をめぐってアメリカとフランスとが対立したのは、突如として保守のシラク政権が平和主義的になったからでも、非帝国主義的になったからでもない。ユーゴの場合のような帝国主義的国際協調にもとづくのではなく、アメリカ一国だけを突出させたことに、古い帝国主義国たるフランスが反発したこと、フセイン政権のイラクにフランスが政治的パイプと利権を持っていたこと、アメリカ帝国主義のあまりにも露骨な侵略政策に対する国際的反発を利用する方がフランスの帝国主義的利益にとって有利であると判断したこと、などがその背景となっている。こうした点を何一つ具体的に分析せず、表面的な対立だけに目を奪われて、独仏を帝国主義国と規定しないという立場をとった不破指導部はまさに、かつての共産党が最も厳しい言葉で断罪してきた「最悪の日和見主義」であり「カウツキー流の帝国主義弁護論」であろう。
また、「ケネディとアメリカ帝国主義」は、帝国主義国の対外政策が世界人民の運動と闘争によってある程度後退することはあっても、本質的な変更をこうむることは「絶対にありえない」と断言している。
「もちろんわれわれは、全世界的な反帝平和の大衆闘争を基礎とした『交渉』によって、帝国主義の戦争と反動の政策の一定の後退をかちとる可能性、さらには一定の協定、たとえば核兵器禁止をふくむ全般的軍縮協定などの締結をも余儀なくさせうる可能性を認めているし、帝国主義を打倒し一掃する以前にも、これらの闘争によって、世界戦争を防止する事業が成功する可能性をも認めている。……これらの可能性をいっさい拒否し、帝国主義の譲歩の可能性をすべて否定することは逆に左翼小児病的なセクト主義と教条主義におちいることを意味している。だが、人民の圧力のもとにおこなわれた帝国主義の一定の譲歩を認めることと、帝国主義が本質的に平和政策に転換した、あるいは基本的、本質的に社会主義体制との平和共存政策にふみ切ったとみなすこととは、まったく別のことがらである。帝国主義が帝国主義であるかぎり、内外の搾取、『全線にわたる政治的反動』(レーニン『帝国主義と社会主義の分裂』、全集23巻 122ページ)と不可分に結びついた帝国主義国家の権力が本質的に非帝国主義的な平和政策をとることは絶対にありえないし、軍備を全廃して社会主義と永続的に平和共存することも絶対にありえないといわなければならない」。
このように、わが党は帝国主義の本質とその時々の政策とを区別し、時には露骨な帝国主義政策をとらない場合でも、その帝国主義的本質が変わることはないという当然の立場をとっていた。いったん帝国主義国になった諸国が帝国主義でなくなるのは、革命が勝利する場合か、帝国主義戦争に敗北して、他の帝国主義国の支配下で既存の権力が解体される特殊な場合のみである。
この不破報告をさらにいっそうひどくしたのが、党中央の理論幹部である足立正恒の7中総での発言である。足立は、不破報告の「意」を汲み取ったのか、不破でさえ言えないようなことを堂々と言ってのけている。
「レーニンの時代には、独占資本の侵略性を抑える条件はなくて、独占資本主義イコール帝国主義となって、世界的な領土分割をやり、分割をし尽くすと、再分割のための争いで帝国主義の戦争は避けられなかった。それがいまでは、社会進歩と諸国民のたたかいによって、独占資本主義の侵略的本性の発現を抑えることが国際的にできるところまできている。それどころか、諸国民のたたかいの発展の中で、独占資本主義国といえども、帝国主義の侵略と戦争に反対する一翼を担いうるところまできている」(強調は引用者)。
何と、独仏帝国主義は今や「帝国主義の侵略と戦争に反対する一翼を担いうるところまできている」というのである! これはすでに「カウツキー流の帝国主義弁護論」をはるかに越えている。
このように、不破報告と足立の発言は、わが党がいかにかつての立場から遠く隔たってしまったか、いかに反マルクス主義的立場に落ち込んでしまったかをはっきりと示している。だが、こうした「最悪の日和見主義」に対して、党内からほとんど何の反発もなく、ごく一部の党員が批判しているにすぎないという現状は、なおいっそう驚くべきものである。これは、指導部のみが変質したのではなく、党全体が改良主義に変質していることを示している。