今日の世界資本主義の動向において最も重要な現象は、アメリカの帝国主義と多国籍企業を筆頭にして、経済大国と多国籍企業中心の新自由主義的なグローバリゼーションが急速な勢いで進んでいることである。これは、世界的な貧富の差を猛烈に激しくし、環境を破壊し、労働者人民の既得権と生活を破壊し、各国の国民経済を破壊しつつある。世界的に、こうした動きに対する反対闘争が急速に盛り上がり、それはたちまち国境を乗り越えて世界的な運動になりつつある。それは、国際的な反戦運動と結びつきつつ、帝国主義と新自由主義の支配する世界に代わる「もう一つの世界」をめざし、今日、現実的で新しいオルタナティヴ運動となりつつある。
さてこの決定的な新しい動きについて綱領改定案は何か語っているだろうか。ほとんど何も語っていない。かろうじて次の2行があるだけである。
「経済の『グローバル化』を名目に世界の各国をアメリカ中心の経済秩序に組み込もうとする経済的覇権主義も、世界の経済に重大な混乱をもたらしている」。
これだけである。このグローバリゼーションが多国籍企業中心の新自由主義的な性格を持っていることも、この運動に対する国際的な反対闘争が盛り上がっていることも、何も述べられていない。不破指導部にとって、グローバリゼーションの問題はただ、「世界の各国をアメリカ中心の経済秩序に組み込もうとする経済的覇権主義」の問題にすぎず、アメリカのみならず(もちろんアメリカが先頭に立っているのだが)、日本やヨーロッパの帝国主義国や多国籍企業もグローバリゼーションを推進している事実についてまったく無視している。彼らにとって、グローバリゼーションに対する闘争は、世界的な規模で「もう一つの世界」を構築する問題ではなく、各国が民族的な経済的主権をアメリカの横暴から守るという問題でしかないのである。
そもそも、不破のグローバリゼーション認識は驚くほど貧困で抽象的である。彼の世界観は150年も前のマルクスの『資本論』の時代から一歩も進んでいない。たとえば、不破は、2年前の中央党学校での講義の中で次のように述べている。
「さきの党大会のときに、ヨーロッパの諸党の代表たちと交流したとき、経済の『グローバル化』の問題が、話題となりました。……
ある党は、『資本主義のグローバル化反対』という主張をかかげていましたが、これは、理論的にもたいへんな矛盾です。科学的社会主義の講義のとき、『資本論』第1部の最後の文章を読みましたが、あのなかに、マルクスが、社会主義への物質的な準備ともなる資本主義のもとでの経済発展を、いくつかの側面から数えあげたところがありました(『科学的社会主義を学ぶ』139~141ページ)。その最後に強調されていたのが、『世界市場の網のなかへのすべての国民の編入、したがってまた資本主義体制の国際的性格が、発展する』(『資本論』④1306ページ)でした。つまり、マルクスは、いやおうなしに国際化の道がすすむことを、資本主義の必然的な傾向だとし、そこに社会主義に向かってすすむ原動力の一つをさえ見たのです。その国際化の傾向が、多国籍企業や国際金融資本が支配するなかで、外国の経済主権を頭から否定するなどの非常に乱暴なやり方をとり、東南アジア諸国を次々と危機におとしいれ、日本の農業を壊滅の道に追いやるなどの事態を生んでいる、これが問題なのですが、それにたいして『資本主義のグローバル化反対!』――いいかえれは、資本主義は国際化をやめろ! ということです――と叫んでも、これは解決の道を開くことにはならないのです」(不破哲三『日本共産党綱領を読む』、新日本出版社、116~117頁)。
ここには多くの重大な問題がある。まず第一に、マルクスの時代の資本主義は現在に比べればはるかに国際化していなかったし、そもそも資本主義世界と呼べるものはヨーロッパと北アメリカにしか存在しなかった。それから150年近くが経ち、当時のマルクスが想像した規模をはるかに越える規模で資本主義の国際化が進んだ。ほとんど全世界が資本主義化され、輸出入の規模も、多国籍企業の世界的展開も、金融資本の国際的取引も、マルクスの時代から見て空前絶後の規模で拡大した。かつて資本主義から離脱したはずのソ連・東欧も再び資本主義世界圏に再編入された。残る中国も資本主義世界の一部と化しつつある。社会主義の前提条件としての資本主義の国際化は十分すぎるほどに進んだ。いったい不破は、どれほど資本主義が国際化すれば社会主義の前提条件が成立すると考えているのだろうか。地球上に住むすべての住人が、アマゾンの奥地の先住民にいたるまで一人残らず、マクドナルドのハンバーガーを食べ、トヨタや日産の車で移動し、ソニーのウォークマンを聞き、携帯電話とパソコンを日常的に使い、衛星放送でMLBを楽しむようになってはじめて社会主義の前提条件が成立するとでも考えているのか。
第二に、不破は、社会主義の前提条件を確立する「グローバリゼーション一般」と、「多国籍企業や国際金融資本が支配するなかで、外国の経済主権を頭から否定するなどの非常に乱暴なやり方」をとる「悪いグローバリゼーション」とを機械的、抽象的に分離している。これは、先の「資本輸出」の場合と同じ非現実的な抽象論である(社会進歩に役立つ「資本輸出」と悪い「資本輸出」との機械的分離)。今そこに存在している現実の資本主義と現実の帝国主義を前提するかぎり、現代のあらゆるグローバリゼーションは「多国籍企業や国際金融資本が支配するなかで、外国の経済主権を頭から否定するなどの非常に乱暴なやり方」をとる以外にありえないのである。
不破は、講壇マルクス主義者らしく、『資本論』をひもときながら、現実のグローバリゼーションと対決しているヨーロッパの諸党に対して、君たちはグローバリゼーション一般と悪いグローバリゼーションとを混同している、グローバリゼーション一般は進歩的なのだ、と説教しているのである。何という愚かしく非現実的な説教であろうか!
第三に、不破は、グローバリゼーション「一般」に反対しない自分の立場を資本主義の枠内での民主的改革を求める国内政策を国外にも広げたものとして自画自賛し、他方では、「グローバリゼーション反対」を呼号するヨーロッパ諸党の立場を「社会主義革命の立場」だと非難している。
「『グローバル化』は資本主義の利潤追求の現れだから、これに反対してゆく。結局、根本は、この問題も社会主義革命の目で見ているところにあるんだな、と感じました。いまのご時世では、社会主義革命論を以前のようにとなえるわけにゆかないから、国内の改革論としてはあまりそれを表に出さないのだが、『グローバル化』の害悪がはっきりしてきたのをとらえて、いわば世界の舞台でこれを押しだそう、という感じです。……
私たちの一昨年(1999年)の東南アジア訪問は、ちょうど、国際金融資本が引き起こした金融危機で東南アジア全体が苦しめられた直後の時期でしたが、発展途上国などの経済主権をきちんと守るなどのルールをつくれ、という私たちの立場では、どこにいっても話があうのです。東南アジアの多くの国ぐにが、こういう問題で、私たちと同じ立場でたたかっている。こういう流れが国際的に合流してはじめて、国際的独占資本陣営の不当なやり方に対抗する世界的な戦線をきずきあげることができるのです。
ところが残念ながら、ヨーロッパの党はそこへゆかないで、多くが『グローバル化反対』で止まってしまっている。
こういう点からいっても、私たちが綱領で、当面の変革を『資本主義の枠内での民主的改革』ということで性格づけ、いろいろな問題にこの立場で取り組んできたということは、こういう国際的な経験からいっても、なかなか値打ちを発揮してきているのです」(同前、116~118頁)。
「資本主義の枠内」を絶対化する不破は、帝国主義的グローバリゼーションのもとでいま現実に進行している国際的な不平等と貧困の蓄積と環境破壊を前にして世界的に資本主義を乗り越えようとするヨーロッパ諸党の取り組みを小馬鹿にし、いかに自分たちの立場が東南アジアの高級官僚たちと一致しているかを得々と説明しているのである。市民の政治的・社会的権利を抑圧し、労働者の権利を踏みにじり、少数民族を差別し、共産党や戦闘的左派を弾圧・禁止し、多国籍企業に従属している開発独裁諸国の政府高官たちと「話があう」ことを自分たちの優位性の証拠にする、これが「共産」党を名乗る政党の最高指導者の言うことだろうか!
以上で第3章の検討は終わりである。これまで見たように、国内問題における改良主義的・日和見主義的姿勢が国際問題でも貫徹されていることがわかる。世界的な現存秩序――国連という機関をともなった帝国主義と資本主義の世界的支配――を不変の前提にし、その枠内で(ちょうど国内で資本主義の枠組みが絶対化されているように)部分的な改良を積み重ねようとする立場がそれである。もちろん、名実ともに単なる改良主義政党ならば、そうした立場でも相対的に進歩的でありうる。だがわが党は曲がりなりにも「共産」党を名乗っているのである!