綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(中)

26、民主主義革命と権力の移行

 次に「第4章 民主主義革命と民主連合政府」を検討する。この章はこれまでの諸章にもまして巧妙に現行綱領が骨抜きにされ、変質させられている。まずその冒頭部分から見てみよう。そこには、後でより詳しく展開することになるさまざまな論点が部分的に先取りされて示されている。まず現行綱領の記述を見てみよう。

 「以上の全体からでてくる展望として、現在、日本の当面する革命は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する新しい民主主義革命、人民の民主主義革命である。
 この革命をなしとげること、すなわち、アメリカ帝国主義と日本独占資本を中心とする勢力の反民族的、反人民的な支配を打破し、真の独立と政治・経済・社会の民主主義的変革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益をまもる道であり、それをつうじてこそ、労働者階級の歴史的使命である社会主義への道をも確実にきりひらくことができる。
 当面する党の中心任務は、アメリカ帝国主義と日本独占資本を中心とする反動勢力の戦争政策、民族的抑圧、軍国主義と帝国主義の復活、政治的反動、搾取と収奪に反対し、独立、民主主義、平和、中立、生活向上のためのすべての人民の要求と闘争を発展させることである。そしてそのたたかいのなかで、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する強力で広大な人民の統一戦線、すなわち民族民主統一戦線をつくり、その基礎のうえに、独立・民主・平和・非同盟中立・生活向上の日本をきずく人民の政府、人民の民主主義権力を確立することである」。

 以上の記述が、綱領改定案では次のようになっている。

 「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである」。

 両者を比べて目につく変化の第1の点は用語上の変化である。もちろんのこと「アメリカ帝国主義と日本独占資本」という言葉がすべて消え去っている。「人民の民主主義革命」「新しい民主主義革命」「人民の政府」「人民の民主主義権力」という用語もなくなっている。そもそも「人民」という「左翼的」言葉がすべてなくなっている。「軍国主義と帝国主義の復活」もなくなっている。後で述べるが「民族民主統一戦線」という言葉もなくなっている。
 これらの用語削除は、単にわかりやすくするための変更ではない。綱領改定案がめざす「民主主義革命」なるものが本質的に「革命」ではないものに変質させるための用意周到な準備なのである。
 綱領改定案のこの部分を読んで気がつく第2の点は、権力の移行に関する新規定である。綱領改定案では、権力が、「日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力」から「日本国民の利益を代表する勢力」に移行するとされている。ここには階級規定というものがいっさいない。「日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力」とはいったいどういう勢力なのか、「日本国民の利益を代表する勢力」とはいったいどういう勢力なのか、この肝心要のことが書かれていない。現行綱領では、権力の移行は、アメリカ帝国主義と日本独占資本から、労働者階級を中心とする人民諸階級へと権力が移行することが当然とされているが、綱領改定案ではその「勢力」の内実がまったく不明である。これが、科学的社会主義を基礎にした政党の綱領だろうか。
 また権力の主体として「勢力」なるものが設定されていることも問題である。特定の階級が権力を握っているのではなく、何らかの体制や利益を代表する「勢力」が権力を握っているという理解である。「日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力」とは、政党関係からすれば明らかに自民党を指す以外にありえない。国家機構においては高級官僚がそれに該当するだろうし、経済関係では財界諸団体(日本経団連など)がそれに該当するだろう。これらの任意の諸団体・諸個人が権力をもっているのであり、その権力を別の任意の諸団体・諸個人の手に移すことが革命だというのである。マルクス主義の古典的な認識においては、諸階級が、政治的・経済的諸支配団体・諸個人を通じて権力を掌握しているということになるのだが、綱領改定案では、そうした団体・個人それ自体が権力を握っている、という理解になっているのである。ここでも、科学的社会主義からの断絶は明白である。
 さらに、何をもって権力の「移行」とみなすのか、という問題もまったく曖昧である。この問題は第35章でより詳しく展開することになるが、やや先取りして言えば、特定の団体・個人が権力をもっているという認識からすれば、当然、単に政権を構成する団体・個人が変われば、権力の移行が生じるという理解にならざるをえない。それらの団体・個人が権力を握っているのは、政権を構成しているからであり、あるいはその政権の下で国家の上層部を構成しているからであり、あるいは国家に影響力を及ぼしているからである。とすれば、そうした構図が変われば必然的にそれらの団体・個人は権力を失うことになる。
 このことから必然的に「敵の出方」論も消失する。「敵の出方」論とは何よりも、たとえ政権の構成が変わっても、支配階級の権力は――大きく傷つけられたとはいえ――まだ失われてはおらず、したがって、過去の階級的力関係を最も強力に物質的に凝縮し、新しい力関係が最も反映しにくい国家機関である国家暴力装置(軍隊、公安警察、機動隊など)を用いて政権の転覆を図ることができるという認識にもとづいているからである。この問題についても、第35章でより詳しく論じる。
 第3の大きな変化は、現行綱領では民主主義革命が「労働者階級の歴史的使命である社会主義への道をも確実にきりひらくことができる」とされているのが、このような文言が完全に削除されていることである。これも第36章でより詳しく述べるが、民主主義革命と社会主義革命とをできるだけ徹底的に切断し、民主主義「革命」における「資本主義の枠組み」を絶対化するという現在の不破指導部の基本姿勢をはっきりと示している。またそれは、「労働者階級」を変革主体の中心とするというマルクス主義の基本的立場からの離脱をも示している。
 ところで、この民主的改革がなぜ「革命」と呼べるのかについて、不破報告は次のように述べている。

 「つまり、そういう形で、国の権力を、ある勢力から別の勢力の手に移すことによって、はじめて民主的改革を全面的に実行することができるようになるわけだし、この変革を革命と意義づける根拠もそこにあります」。

 つまり、ここでは「革命」は、マルクス主義的な用語法で言えば、もっぱら「政治革命」の意味で使われていることがわかる。実際にはこの「政治革命」も「政権の移譲」という意味でしかないのだが、それはさておき、「社会革命」としての「革命」の観点が完全に放棄されていることがわかる。この点に関してはさらに、不破は「質問・意見に答える」の中で、「社会主義革命」に関してはなぜ「社会主義的変革」といって「革命」と呼ばないのかという質問に対する回答として、社会主義的変革の場合は、必ずしも権力の移行が起きるとはかぎらないので、「国の権力が別の勢力の手に移行することを意味する『革命』という言葉は、使いませんでした」と述べている。
 まったくナンセンスな言い分である。たしかに、レーニンなどは口を酸っぱくして、革命の根本問題は権力問題であると言ってきた。だがこれは、「革命」を権力の移行に矮小化するためではない。あくまでも、実際に新しくできた権力が革命と呼ぶにふさわしい大規模で根源的な政治的・経済的・文化的変革をなしとげるからこそ、「革命」と呼べるのである。ただ権力だけが移行して、実際にやることはヨーロッパ社会民主主義と同じ程度のことでしかないとすれば、それはマルクス主義的な意味では「革命」と呼ぶことはできない。
 61年綱領においては、少なくとも1994年に不破によって部分的に骨抜きにされるまで、民主主義革命の段階であっても、その社会変革の内実は「革命」と呼ぶにふさわしいラディカルな性質を持っていた。まず経済関係においては、日本経済におけるアメリカ資本の国有化、重要産業部門の独占大企業の国有化と民主的管理、それ以外の一定の独占大企業の国有化と民主的管理である。さらには、政治関係でも、国家機構の大規模な変革(サンフランシスコ体制の打破、君主制の廃止、議会制度の徹底した民主化、軍隊と弾圧機構の解体など)が盛り込まれていた(後述するように、以上の課題はすべて今回の綱領改定案ですべて削除されている)。それは――第36章で再論するが――事実上、社会主義革命の一部分を実行するものであった。独占資本を単に上から規制したり、ルール作りをするだけでなく、本当の意味でアメリカ帝国主義と独占資本の経済的・政治的な権力基盤を粉砕し、収奪者を収奪することが、61年綱領における「民主主義革命」であった。だからこそ、権力をアメリカ帝国主義と独占資本の手から人民の手に移すことが必要なのである。
 マルクス主義(科学的社会主義)においては、あくまでも「政治革命」の必要性は「社会革命」の必要性に従属する。社会的・経済的に旧来の支配者・収奪者・搾取者の権力と富を奪い取るためにこそ、階級間の政治的な権力移行が必要になるのである。不破は、科学的社会主義のこの基本思想を否定し、その変革の内実がヨーロッパ社会民主主義の実現でしかない「民主的改革」を民主主義革命と呼び、「生産手段の社会化(正確には社会的所有化)」という革命的内実を持つはずの社会主義的変革を「革命」と呼ばないという、まったくひっくり返った立場をとっているのである。

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