しかし、綱領改定案にも、国家権力の問題についてもう少し踏み込んだ記述がある。次にそれを検討しよう。
「このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない。引き続くたたかいのなかでは、統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる」。
ここに示されているように、この政府の任務は、旧来の軍事・官僚機構を粉砕することでもなければ、「反動的国家機構を根本的に変革」することでもなく、出来合いの国家機構をそのまま掌握することでしかない。まさに、勝利したプロレタリアートは出来合いの国家機構をそのまま自分の利益のために利用することはできないというマルクス主義国家論・権力論の根幹を明確に否定するにいたっているのである。この点は、不破報告による説明を見てもはっきりしている。
「国家論的にいいますと、国家権力というのは、国家機構の全体からなりたっているもので、政府というものは、その全体からいえば、頭にあたる部分にすぎません。制度の上で国家機構の全体を指揮する権限は与えられていますが、実際の行政は、官僚集団からなる機構が執行します。だから、新しい勢力が政権についた場合にも、『頭部』をなす政府をにぎっただけでは不十分で、国家機構の全体を実際に動かすところまですすまなければ、国の権力をにぎったとはいえません。ここに、国家論からみた、政権交代の問題点があります。
この問題は、国家論という難しい形でもちださないでも、実は、日本の政治の現場で日常的に経験されていることです。日本の国政について、いったい日本の政治を実際ににぎっているのは誰か、政府を構成している自民党や公明党なのか、国家機構を毎日動かしている官僚なのか、という形で、国の権力の本当の所在はどこにあるのかが、たえず話題になります。また地方政治でも、選挙で選ばれた知事は、県政の最高責任者ですが、その知事が、県政の日常の執行にあたる行政機構とどういう関係に立つのかは、現場でたえず問題になることです。
自民党政治が継続している現在でも、それだけの問題がある分野ですから、国の政治の流れが変わるというときには、そこにいちだんと大きな問題が起こることは明らかです。ただ、これは、問題の性格からいえば、国民から選ばれた政府が、その責任において、国家機構の全体をしっかりにぎるという過程にほかなりません。そういう見地から、この問題も、国家論的な叙述というよりも、より実際的な形でわかりやすく叙述することにつとめました」。
ここでも、旧来の軍事・官僚機構の粉砕についても反動的国家機構の根本的な変革についても何も言われていない。そもそも「暴力装置」(70年代後半以降の共産党の用語法によれば「強力装置」)という言葉さえ出てこない。これまで、党も不破自身も、綱領を解説した多くの論説や著作において、国家機構の全体を掌握することの必要性を繰り返し説いてきたが、その場合には常に「暴力(強力)装置をはじめとする」とか「暴力(強力)装置を含む」という規定が加えられていた。そして、この「暴力装置」による抵抗と反抗を打ち破ってはじめて、国家機構の全体を掌握することができるという立場に立っていた。ところが、ここではそうしたものは言葉としてさえ出てこず、あたかも単なる普通の行政機構をうまく「動かす」問題でしかないかのように叙述されている。
このことをさらに鮮明にしているのは、先の引用で、地方政治において革新知事の経験する苦労の問題と、中央政府の国家権力の問題とが同列に並べて論じられていることである。たしかに、地方政府においては軍隊や米軍による反抗やクーデターという問題はほとんど生じない(まったくないとは言えないが)。しかし、中央政府の掌握においては、何よりも自衛隊、公安警察、米軍などの暴力装置が決定的な意味を持つのである。ところが、不破報告では完全にこれらの問題が無視されている。ここには、61年綱領制定時にあれほど問題になった「敵の出方」の問題、平和革命必然論に対する批判などがいっさい抹消されている。頑迷な官僚をうまくコントロールできさえすれば、それで権力の完全な掌握が可能になる、というわけである。
かつて共産党は(不破哲三自身も)、そのような立場を最も厳しい口調で糾弾してきた。それをすべて引用すればあまりにも膨大になる。たとえば、第7回党大会における宮本顕治の第2報告の「九、革命の平和的移行について」などを読み返してほしい。ここでは、「極左日和見主義者の中傷と挑発」が安保条約の廃棄通告に関してさえそう簡単にいくものではないことをはっきりと述べていることを紹介しておこう。
「さらに、わが国で革命の発展を展望する場合、けっして無視することのできないのは、日米安保条約にもとづく在日米軍の存在である。『大規模の内乱および騒じょうの鎮圧』を公然と在日米軍の基本的任務のうちにかかげた旧安保条約第1条は、1960年の安保改定のさいに一応とりのぞかれた。しかし、この条項が、かたちをかえて新条約第4条(日米両国は『日本国の安全にたいする脅威が生じたとき』に協議する)にひきつがれ、アメリカ帝国主義が、一定の条件下で軍事的干渉にでる法的根拠がなおのこされていることは、改定交渉の過程で、明らかにされたところである。しかも、安保条約、サンフランシスコ『平和』条約をはじめ一連の売国的諸条約は、一方的通告でただちに無効になるように規定されてはいない。安保条約については、1970年以後は、日本政府が廃棄通告をおこなった場合には、1年後には条約は廃棄されることになっているが、現実の政治問題としては、アメリカ帝国主義がこの通告をそのまま受諾し、おとなしく1年後に在日米軍を撤退させるという現実的保障は存在していない。むしろ予想されることは、アメリカ帝国主義が、1年間の『合法的』猶予期間を利用して、日本の反動勢力とともに、統一戦線政府を打倒して日米軍事同盟と在日米軍基地の存続を確保するための、必死の反撃をくわだてるであろうということ、すなわち、統一戦線政府の安保廃棄通告が、日本の進路をめぐる日本人民と米日反動勢力のあいだの闘争のもっともはげしい局面をひらくであろうということである」(「極左日和見主義者の中傷と挑発」、『日本共産党重要論文集』第5巻、123頁、強調は引用者)。
これがわが党の従来の立場であった。この立場はきわめてリアリティのある議論である。同論文はさらに別の箇所で次のように述べている。
「わが党の綱領は、人民が、国会と政府をその手ににぎって、これを人民の利益の擁護、革命の勝利と反動的な国家機構の根本的な変革のために活用する展望をしめしているのであって、米日支配層による反動支配の道具である現在の国家機構を、そのまま人民権力の機構とするなどということは、まったく主張していない。……今日の資本主義国家の中央集権的国家機構、とくに警察、軍隊、官僚などを中心とする膨大な官僚的・軍事的機構は、本来、人民への抑圧と支配を主要な目的としてつくりあげられた反人民的な機構であり、たんに人民を代表する勢力が議会の多数をしめ、政府をにぎったからといって、それだけでこの機構全体を人民の利益のためにそのままつかうことはできないからである」(同前、148~149頁)。
ところが、今では不破指導部は、暴力装置の問題を徹底的に無視し、出来合いの国家機構をそのまま掌握して実際に動かすことが、民主主義革命の課題であると言うようになっている。もちろん、その場合でも、行政機構の多少の改善・改良は行なわれるだろう。今回の綱領改定案でも、すでに紹介したように、「民主的改革」の一環として「行政機構」の「民主的改革」にひとこと言及されている。しかし、国家の根幹にあたる暴力装置の問題は無視されたままであり、議会制度もただ今のまま堅持されるだけである。「民主連合政府」と「民族民主統一戦線政府」と「革命の政府」との区別をなくしたのは、まさにこの革命における最も困難な問題を回避するためであり、その本質上、「革命」そのものを放棄するためなのである。現行綱領からの断絶、したがってまた科学的社会主義(マルクス主義)からの断絶はあまりにも明白ではなかろうか。