さて、いよいよ今回の綱領改定案で「未来社会論の創造的開拓」(不破結語での表現)と自画自賛されている、「共産主義の二段階」説の放棄に話を移そう。この問題については、不破は、『前衛』の10月号で詳しい論文を書いている。しかし、この論文の詳しい検討は別の論文で行なうこととし、ここでは、不破報告の中での説明を主たる検討の対象としよう。
まずこの「二段階説」に関する現行綱領の記述を見ておこう。
「社会主義社会は共産主義社会の第一段階である。この段階においては、人による人のいっさいの搾取が根絶され、階級による社会の分裂は終わる。社会主義日本では『能力におうじてはたらき、労働におうじてうけとる』の原則が実現され、これまでになく高い物質的繁栄と精神的開花、広い人民のための民主主義が保障される。
共産主義社会の高い段階では、生産力のすばらしい発展と社会生活の新しい内容がうちたてられ、社会は、『能力におうじてはたらき、必要におうじてうけとる』状態に到達する。組織的かつ系統的な暴力、一般に人間にたいするあらゆる暴力は廃絶される。原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる共産主義社会、真に平等で自由な人間関係の社会が生まれる」。
このように、現行綱領は、レーニン以来の通説にしたがって、共産主義社会を低い段階と高い段階に分け、低い段階の分配原則を「能力におうじてはたらき、労働におうじてうけとる」とし、高い段階の分配原則を「能力におうじてはたらき、必要におうじてうけとる」とし、後者の段階においてはじめて「組織的かつ系統的な暴力、一般に人間にたいするあらゆる暴力は廃絶され」、「原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる共産主義社会」が実現するとしている。
こうした区分の仕方には、たしかに、通説への安直な依拠から生じる不正確な要素が存在する。現代資本主義の到達点から見て、あるいは、より正確な社会主義像の観点からして、必要な修正と補足が必要であるのは言うまでもない。しかしながら、不破の説明は、そうした水準を完全に越えて、こうした分配原則の意義そのものを事実上否定するにいたり、共産主義の低い段階と高い段階の区別そのものを抹消してしまっている。
現行綱領は「生産手段の社会化」を中心に据えていないか
一つ一つ不破の議論を見ていこう。まず不破は、現行綱領がこの二段階説を採っているということから「社会主義社会や共産主義社会の特徴づけにおいて、『生産手段の社会化』という根本問題が中心にすえられず、人間社会の進歩・発展としてのその意義も十分に明らかにされていない、こういう弱点が明らかになってきたことであります」と述べている。ここでもまた、今回の不破報告に一貫して見られる特徴である、現行綱領の過小評価の一つが見られる。
現行綱領の記述を見ればわかるように、現行綱領はそもそもこの二段階説の記述の前に、社会主義革命の内実として「社会主義の目標は、資本主義制度にもとづくいっさいの搾取からの解放、まずしさからの最終的な解放にある。そのためには、社会主義建設を任務とする労働者階級の権力の確立、大企業の手にある主要な生産手段を社会の手に移す生産手段の社会化、国民生活と日本経済のゆたかな繁栄を保障するために生産力をむだなく効果的に活用する社会主義的計画経済が必要である」ときっちり書いている。
この記述から明らかように、現行綱領は、社会主義革命の内実として「労働者階級の権力の確立」と「社会主義的計画経済」と並んで「生産手段の社会化」を挙げている。まさに現行綱領においては「生産手段の社会化」は社会主義を特徴づける中心にすえられているのである。
呼称の使い分けの起源
次に不破は、共産主義の低い段階を社会主義、高い段階を共産主義と呼称を使い分ける用法がマルクスにもエンゲルスにもなかったことを指摘し、さらにレーニンにもそういう使い方はなかったとしている。
「では、レーニンは、どうか。レーニンは、『国家と革命』を書くとき、『ゴータ綱領批判』を集中的に研究し、そこでの未来社会論について解説を書くのですが、そのなかで、マルクスのいう『共産主義の第一段階』(低い段階)のところに注釈をつけて、『普通、社会主義と呼ばれている』と書いたりしています。しかし、10月革命後のいろいろな論文や演説を見ても、レーニン自身が、社会主義、共産主義という用語について、段階的な使い分けをしている、という例はほとんど見当たりません」。
不破は、レーニンがこのような使い分けをしていない例として「共産主義とはソビエト権力プラス全国の電化である」というスローガンを持ち出し、その上で次のように述べている。
「こう見てくると、未来社会の低い段階を『社会主義』、高い段階を『共産主義』というのは、マルクス、エンゲルスのものでも、レーニンのものでもない、もっと後世に属する使い方だということが、はっきりしてきます」。
残念ながらちっともはっきりしていない。不破自身が述べているように、レーニン自身が『国家と革命』で共産主義の低い段階を「普通、社会主義と呼ばれている」と述べているように、すでにレーニンがこの著作を書く時点ではそういう言い方が「普通」にされていたのである。おそらくは第2インターナショナルの中でそういう用語法が一定定着していたと思われる。レーニンの独自性は、そういう使い方をしたことにあるのではなく、それを国家死滅論の解釈と結びつけたことにある。
もちろん、レーニンが「社会主義」や「共産主義」という言葉をもっと広い意味で用いたことはいくらでもある。むしろその方が多い。しかし、それはごく自然なことである。もともと両者は同義的に用いられてきた言葉であり、厳密に両者を区別して論じる必要のない場面では、そうした区別をすることなくこれらの言葉を用いることにとくに問題はないからである。レーニンが、別の場面ではそのような使い分けをしていなかったことは、けっしてそうした呼称の使い分けが「レーニンのものではない」理由にはならない。
また、後世において、レーニン崇拝のもとで、こうした呼称の使い分けがより明確に定着するにいたったことは明らかであるし、それがスターリンによって悪用されたこともそのとおりだろう。だが、やはりその場合でも、この呼称を「レーニンのものでもない」と言い切ることには無理があろう。
ところで、この綱領改定案報告からわずか3週間後の7月18日に行なわれた「日本共産党創立81周年記念講演会」では、不破は、このような呼称の使い分けについて、「レーニンのものでもない」どころか、レーニンが「組み立てたもの」だと、まったく正反対のことを述べている。
「これまではまず社会主義という段階があって、それから共産主義にゆく、こういう二段階論が世界でも“定説”になっていましたし、私たちの綱領もその立場をとっていました。これはレーニンがマルクスの文章を解釈して組み立てたものでありまして、90年近く世界の“定説”となってきたのです」。
わずか3週間でまったく正反対のことを平気で述べることができるのだから、驚きである。実際には、「レーニンのものではない」という主張も、「レーニンが組み立てたもの」という主張もどちらも間違いである。レーニン自身が「普通、社会主義と呼ばれている」と『国家と革命』で述べているように、レーニンは、第2インターナショナルの中で言われていたことをより厳密に言ったにすぎないのである。この定説がここまで普及したのはもちろん、レーニンの権威によるところが大きいが、いずれにせよ、この定説の起源はレーニンではない※。
※注 ちなみに、中央での8月18日の講義を再録した『前衛』10月号の不破論文では、「レーニンのものではない」とも「レーニンが組み立てたもの」とも言われていない。つまり不破は、この定説の起源に関して、わずか2ヶ月のあいだに、三つのまったく異なることを言ったことになる。もちろん、自分の考えが変わってもいい。ただ、そのことを率直に党員と読者に語るべきだろう。さもないと、党員と読者は混乱するばかりだ。不破のエピゴーネンたちが、定説の起源に関して最終的にどの説を採用することになるのかはちょっと興味深いところである。
マルクスの青写真主義?
次に不破は、例の青写真主義批判を展開している。
「この二つの段階を生産物の分配の方式で分けるという考えは、『ゴータ綱領批判』のなかで、マルクス自身がのべていることです。しかし、ここにもやはり大きな問題があるのです。
実は、マルクスにしても、エンゲルスにしても、未来社会のいろいろなしくみについて、未来はこうなるよという青写真を示すことについては、非常に慎重でした。そういう問題は、その問題に現実にぶつかる世代の人たちが、その状況に応じて解決することで、いまから解決策を書いて、将来の人たちの手をしばるようなことをすべきでない、この態度をつらぬきました」。
こう述べた上で、不破は、分配論についても基本は同じであり、マルクスもエンゲルスも未来社会の分配論について他の文献では確定的なことを何ら述べていないとして、幾つかの文献を引用している。これらはいずれも『前衛』10月号の不破論文でより詳しく展開されているので、この論文を検討するときに論じよう。
さて次に、不破は、青写真主義を戒めたマルクスの立場からすれば、『ゴータ綱領批判』における分配論は「青写真に近いところまで書いているという印象を受け」ると述べている。しかし、『ゴータ綱領批判』におけるマルクスの分配論は、発展の主要な方向性を示唆したものであり、いわゆる「青写真」とは何の関係もない。実際、不破はかつては、この『ゴータ綱領批判』の叙述は「青写真主義」ではないと断言していたのである。
不破は1989年のインタビュー「現代の世界をどう見るか――社会主義・資本主義の今日と未来」において、赤旗記者の質問に答えて次のようにはっきりと述べている。
「不破 マルクスなど科学的社会主義の創始者たちは、未来の共産主義社会の青写真をつくることはしませんでしたが、ごくおおまかな発展の方向として、資本主義のあとをつぐ共同社会は、一般に『社会主義』とよばれる第一段階から、『共産主義のたかい段階』への段階的な発展をするだろうという見通しを明らかにしました。
どちらの段階も、主要な生産手段が社会の手に握られ、個々の資本による利潤のための生産ではなく、社会による社会のための生産が支配的になる(生産手段の社会化)という点は、共通していますが、社会主義の段階では、生産力もまだ資本主義時代の延長線上という低さで、社会生活のさまざまな面で資本主義時代の名残がまだ色濃く残っています。まだ生産される生産物の量もかぎられていますから、この段階では、『各人は能力におうじてはたらき、労働におうじて報酬をうける』という分配が、社会を運営してゆく大事な原則になります。
しかし、共同社会は、いつまでもその段階にとどまるわけではありません。社会のための生産という新しい体制のもとで、生産力のすばらしい発展と社会生活の新しい内容が打ちたてられるとともに、人間自身も、階級社会には考えられなかったような発展をとげます。『共産主義のたかい段階』では、生産力の巨大な飛躍的な発展によって、社会生活を維持・発展させるために必要な労働時間は、大幅に短縮できるようになり、すべての勤労者が、かぎられた時間を物質的な生産にあてたあとは、自分の精神的・肉体的な能力を発展させるために、自由な時間を十分にもつことができるようになります。ここでは、人間の知的労働と肉体労働の差別が消え去り、労働にたいする態度も変わって、『報酬のためにはたらく』という習慣も過去のものとなるでしょう。社会全体が、十分な生産物を保障されて、『各人は能力におうじてはたらき、必要におうじて生産物をうけとる』ことができるようになります。
これが『共産主義のたかい段階』で、ここまで発展した共同社会では、共同社会の運営そのものが、自治的におこなわれるようになり、階級社会からひきついだ国家権力は、もはや無用の長物となって、死滅してゆくことになります。もちろん、国家間の戦争というものも消滅します」(『日本共産党国際問題重要論文集』第21巻上、57~58頁、強調は引用者)。
このように、不破は、マルクスは青写真主義を戒めていたが、「ごくおおまかな発展の方向として」共同社会の発展段階についての見通しを明らかにしたのだと述べている。この時点では青写真ではなく「ごくおおまかな発展の方向」であったものが、14年後の今日では「青写真に近いところまで書いている」ことになってしまうのである。
だが、マルクスの忠実な弟子を気取る不破は、ただちにマルクスの名誉回復に尽力する。不破は、同じ「ゴータ綱領批判」におけるマルクスの注意書きを紹介しつつ、マルクスの「忠告の本旨」は、未来社会の分配論にあったのではなく、「未来社会を党の綱領で論じるなら、混乱した分配論をふりまわすことはやめて、生産体制の変革をしっかり中心にすえなさい」ということだったと主張する。もちろん、そのことに誰も異議を唱えはしない。マルクスの思想もほとんど理解されていないし、定着されてもいない当時のまったく初期段階においては、遠い未来社会の段階的区別に注意を集中するのは愚かなことであり、何よりも資本主義社会から社会主義に切り替える主要な社会的・政治的ポイントに議論を集中するべきであるとしたのは、当然である。その主要なポイントこそ、不破的表現による「生産手段の社会化」であり、その前提としての「労働者階級による権力獲得」であった。不破は、前者については力説するが、後者については綱領改定案の報告でも『前衛』論文でもすっかり無視している。
不破のマルクス批判
さて、次に不破は、『ゴータ綱領批判』におけるマルクスの分配論そのものへの批判に進む。
まず、「労働に応じた分配」について、不破は、結語の中で次のように述べている。
「これまでのように、社会主義になったら生産物を『労働におうじてうけとる』ことになるといった社会像だとしたら、未来社会も、現状とあまり違わないなと思う人が、多いかもしれません。多くの人は、資本主義社会での賃金とは『労働におうじてうけとる』ものだと考えているからであります。これは、分配論の角度からの社会主義・共産主義社会論では、未来社会の真価を的確に語ることはできない、ということです」。
ここでの不破の議論はまずもって、「共産主義の二段階」説を歪めるものである。「労働に応じた分配」が出されているのは、あくまでも共産主義社会の高度な段階に比しての低い段階の特徴を言うためであって、資本主義社会との主要な違いを言うためではない。そんなことは、通説にあっても明白であって、現行綱領も、あくまでも共産主義の高い段階と区別するために低い段階での「労働に応じた分配」について語っているのである。つまりそれは、「未来社会の真価」としてではなく、低い段階におけるやむをえない制限として語られているのである。
さらに、「労働に応じた分配」原則そのものについても、不破の説明は的外れである。後でより詳しく述べるが、「労働に応じた分配」とは、資本をはじめとすると有産諸階級が労働なしに他人の生産物を領有している資本主義的な分配のあり方に対するアンチテーゼであり、それは生産における「搾取の廃止」の、分配における等価物である。「多くの人は、資本主義社会での賃金とは『労働におうじてうけとる』ものだと考えている」から、この分配原則は魅力がないと語るのは、まったく馬鹿馬鹿しい。そんな論理が成り立つなら、こう言うこともできるだろう。「多くの人は、資本主義社会で搾取されているとは考えていないので、生産手段の社会化や搾取の廃止は魅力のないものだ」と。あるいは、「多くの人は、共産党を独裁の党だと思っているので、共産党の政権参加を前提にした民主的改革は魅力のないものだ」とも言える。現在の資本主義的物神崇拝に完全に支配された「多くの人」の意識レベルから「労働に応じた分配」を批判するのは、実際には天につばを吐くことである。
次に不破は、「必要に応じた分配」論に関して、綱領改定案報告の中で次のように批判している。
「しかし、すべての源泉からあふれるほどに生産物が湧(わ)き出るから、『必要におうじた』分配が可能になる、ということは、人間の欲望の総計を超えるような生産の発展を想定し、そのことを、共産主義の高度な段階の条件にする、ということです。はたして、そのような段階がありうるか、人間社会のそういう方向での発展を想定することが、未来社会論なのだろうか、ここには、私たちが考えざるをえない問題があります。
すでに、19世紀に生きた人びとの日常生活と現代人の日常生活をくらべるなら、生活の必要な物資の総量の違いには、ケタ違いの格差があります。しかも、人間の欲望は、今後の社会的な発展、科学や技術の発展とともに、想像を超える急成長をとげることが予想されます。その時に、簡単に、人間の欲望を超えて『あふれるほど』の生産、あるいはありあまるほどの生産を、未来社会の条件として安易に想定することは、それ自体が、未来社会論に新しい矛盾を持ち込むことになりかねません」。
ここでは、『ゴータ綱領批判』における基準としての「必要」がいつのまにか「欲望」にすり返られ、『ゴータ綱領批判』では単に「いっそうあふれるほど」と記述されていた富が、「人間の欲望の総計を超えるような生産」「人間の欲望を超えて『あふれるほど』の生産」にすり返られている。しかも、ここでの「欲望」は、あたかも資本主義社会におけるコマーシャリズムによって無制限に駆り立てられた悪無限的な「欲望」であるかのように扱われている。
後で詳しく述べるが、『ゴータ綱領批判』でマルクスが言っているのは、このような荒唐無稽な未来社会像ではない。人間の欲望が無限に拡大していき、その欲望の総計を超えるような生産が行なわれ、その生産の生産物が欲望に応じて好きなだけ分配される、というようなものではない。共産主義社会はむやみに禁欲を押しつける社会ではないが、だからといって無制限に拡大する欲望に立脚することもできない。おそらく、不破自身がこれまでずっと『ゴータ綱領批判』のこの部分をそのように理解していたのだろうが、そんなことはマルクスは何も言っていない。
今日においてさえ、部分的には「必要に応じた分配」がなされている。社会福祉は典型的にそうであるし、義務教育もそうであるし、水道や電気や道路などのインフラ設備もそうである。それらは、支払能力(所有)に応じて(市場原理)でも、労働に応じて(共産主義の第一段階)でもなく、必要に応じて分配されている。だが、資本主義社会における基本的な分配法則は「所有に応じた分配」である。それに対して、マルクスは、共産主義社会の高い段階では基本原則は「必要に応じた分配」になるといっているだけである。これは、「労働に応じた分配」がまったく存在しないということを言っているのではなく、あくまでも主要な分配様式を言っているにすぎない。これは生産関係の場合と同じである。資本主義社会において部分的に生産手段の「社会化」は実現しているが(自治体や国家や協同組合による生産手段所有)、その基本原則は生産手段の私的所有であるのと同じである。
ここで言う「必要」の範囲はもちろん、その時々の社会の発展段階や権利意識の向上によって変化するだろう。たとえば、文化やスポーツに親しむことは、かつては一部の上層階層の特権であったが、今では人民の権利の一つに数えられている。またその「必要」を満たす水準は、何よりもその時々の生産力水準に規定されるだろう。しかし、重要なのは、人が人間らしく生きていくために必要なさまざまな富が所有の能力によって分配されるのではなく、あくまでも必要に応じて分配されるという原則である。
もちろん分配様式は基本的に生産様式に従属する。したがって、生産諸関係のあり方と無関係に理想的な分配法則を云々することはナンセンスであり、空想的社会主義に陥ることを意味する。しかし、それにもかかわらず、社会主義的な生産関係を前提にした上で、どのような分配様式が成り立つかを「おおまかな発展の方向」性として提示することは、何ら「青写真主義」ではない。もしそれが「青写真主義」なら、社会主義社会における生産様式を「生産手段の社会化」として提示することさえも「青写真主義」だろう。