では次に、「共産主義の二段階」説に関してどう見るべきかをごく簡単に述べておこう。ただし、この説と結びつけて国家の死滅に関する独自の議論を展開したレーニンの議論については、続く章で検討することとし、ここではマルクスの二段階説のみを検討対象とする。
まず資本主義社会の分配原則は、すでに述べたように所有に応じた分配である。資本主義以前の小商品社会(常に社会の一部にしか存在しない)では、所有と労働とはおおむね一致していた。しかし、資本主義的システムの成立とともに、小商品生産者はしだいに駆逐され、労働力と生産手段とが分離するとともに、所有と労働とが根本的に分離・対立するようになる(領有法則の転回)。資本主義社会においては、所有するもの(資本家)は労働せず、労働するもの(賃労働者)は所有しない(正確には、労働力の再生産のために基本的にすべて消費される一過的な個人的消費手段の所有しか存在しない。それは、日々資本のもとで労働しないとただちに消えてなくなっていく半所有にすぎない)。
賃労働者が永続的に所有するものはただ労働力のみである。その唯一の所有物を労働者は資本家に切り売りしなければならない。そしてその労働の果実の大部分を資本家は対価なしに取得し、それをさらなる大規模な搾取の源泉とする(蓄積と拡大再生産)。相対的過剰人口の生成と増大をともなうこの蓄積過程を通じて、一方の極(資本)ではますます増大する富が蓄積され、他方の極(賃労働)では、ますます深まる資本への従属、生活の不安定化、失業、労働苦が増大する(富の蓄積と貧困の蓄積の対立)。もちろん、この対立は、景気の動向、労働側の持続的闘争、政府の介入、等々によって緩和しうるし、半所有の程度もよりましなものになることができる。だが、全体としての発展の方向性に変化はない。資本の側に巨大な富の蓄積、労働の側にかっつかっつの生活上のわずかな資源と引き換えにますます増大する労働苦と不安定性が蓄積するという事態に変化はない。
これが資本主義的な生産様式から生じるところの資本主義的な分配様式のもたらす現実である。マルクスが共産主義の低い段階において「労働に応じた分配」を主張したのは、以上の現実に対するアンチテーゼとしてである。もちろん、生産諸関係の変革と分離して「労働に応じた分配」を云々するとすれば、有象無象の空想的社会主義者と同じである。マルクスの立場はそうではない。生産手段の私的所有を廃絶し、生産手段を集団的労働者の社会的所有に移すことによって、「労働に応じた分配」の前提条件をつくり出す。労働者が新たに生み出した富から必要なものを控除したのち(経済的・社会的インフラのための資金、消耗した生産手段の補填部分、生産拡大のための追加的支出、事故や自然災害などのための予備基金、社会保障部分、社会全体の管理運営のための一般費用、社会的生活手段のための資金などなど)、個人的消費手段部分が労働に応じて個々の労働者に分配される。これは、生産関係における搾取の廃絶と同じ意義を分配関係で持つ。なぜなら、労働者が社会に与えたものと同等のものを(控除ののち)受け取るという原則は、一握りのものが他者を犠牲にして多くの富を独占することを不可能にするからである※。
※注 ところで、この「労働に応じた分配」と市場との関連はどうなるのだろうか? 過渡期に市場が残るのは当然だが、過渡期を終えた共産主義社会の低い段階においてはどうだろうか。労働に応じて分配するということは、各人が行なった労働時間(大雑把な数値で十分だろう)を示す価値証票(名目貨幣)のようなものがあいかわらず存在することを意味する。そして人々は、その価値証票ならぬ労働証票をもって、商品販売所のような場所(財交換所)に行って、自分の欲する財と労働証票とを交換するだろう。その光景は基本的に貨幣を持って店に行って商品を買う姿とほとんど変わらない。おそらくは、労働証票としてこれまでと同じ貨幣が用いられるだろうから(なぜならその方が資源の無駄が少ない)、その意味と内実は根本的に異なっていても、見た目には通常の市場交換の風景と変わらないかもしれない。あるいは、インターネットや電子決済の発達によって、もっとその姿は異なったものになるかもしれない。いずれにせよ、それは、他の諸問題と同じく、未来社会によって試行錯誤を通じて解決されだろう。
だが以上のことにただちに次のことをつけ加えなければならない。
まず第一に、「労働に応じた分配」とは、あくまでも必要なものを控除した残りの個人的消費財の分配原則にすぎない。この控除部分には、最初から社会保障のような「必要に応じた分配」部分が含まれているし、また社会的生活手段(公共交通、医療機関、公共衛生設備、教育施設、文化・スポーツ施設、公共住宅、等々)のような共同で用いる消費財部分が含まれていることである。そして、この両者は、社会主義社会においては、ますます増大する部分として存在する。『ゴータ綱領批判』においても、マルクスは「学校、衛生設備などのような、諸欲求を共同で満たすためにあてられる部分」について「この部分は、現在の社会に比べるとはじめからいちじるしく増大し、新しい社会が発展するのに対応して増加する」と述べている(『ゴータ綱領批判』、国民文庫、24頁)※。
※注 綱領改定案について論評したトピックスですでに言及したが、綱領改定案は「社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」と述べている。不破の脳裏には、『ゴータ綱領批判』にさえはっきりと述べられている社会的生活手段(「諸欲求を共同で満たすためにあてられる部分」)のことはまったく思い浮かばなかったらしい。不破の構想する社会主義・共産主義社会では、すべての財は社会的生産手段と個人的消費手段によって構成されているようだ。しかし、後述するように、それこそまったく無駄の多い社会であろう。
ちなみに不破の大好きなエンゲルスは、住宅問題に関する有名な論文の中で、労働者による住宅の個人的取得を理想的な社会主義的提案として掲げるプルードン主義者を批判して、次のように述べている。
「今日のように大工業と都市が発展しているときには、この提案はばかげてもいれば、反動的でもあること、そして、自分の住宅に対する各人の個人的所有権の復活は一つの退歩であろう」(『マルクス・エンゲルス全集』第18巻、281頁)。
第二に、この段階でもすでに、個人的消費手段のうち、人間の生活や発展にとって最も基本的な消費財・サービスは――生産力の水準やその他さまざまな条件に制約されてだが――「必要に応じて」分配されるだろう。すでに一部の資本主義国や「社会主義」国でも部分的に実現されている(されていた)医療サービス、交通サービス、教育サービスなどの無料利用は当然、その中に入る。電気・ガス・水道の利用に関しても、生活に必要な一定量以下は無料とされて当然であろう。
つまり、「労働に応じた分配」原則の段階にも相当部分に「必要に応じた分配」が入り込んでいるということである。そして、この後者の部分がしだいにその領域を広げていき、社会の分配様式の基本原則といえるまでにその範囲を拡大したならば、それはすでにその社会は「必要に応じた分配」原則が確立されている社会といえるだろう。この段階になってはじめて、労働は生きていくためにやむなく行なう強制労働的意味(つまりは、本質的に奴隷労働と共通する性格)を完全に失い、自由の行為となる。人類は、生きていくための必要性という強制力から解放されて、人類の本史へと突入する。これこそ、マルクスが「真の自由は物質的生産の領域の彼岸にある」と言ったときに念頭に置いていたものであり、これこそ共産主義社会という名前に真にふさわしい状態である。
ここでただちに言っておかなければならないのは、その場合でも、ぜいたく財と呼べるような消費財に関しては「労働に応じて」という原則が継続するだろうし、あるいは環境負荷が大きい消費財や他人の人権を侵害するおそれのある財やサービスなどは、入手に制約が存在し続けることはいうまでもない。「必要に応じた分配」原則といっても、すべての消費財・サービスを包含する必要はない。憲法第25条が言うような「健康で文化的な」生活を実現するのに必要な財やサービスを包含できれば、それでよい。「労働に応じた分配」原則の時代にも「必要に応じた分配」原則がかなり入っていたように、「必要に応じた分配」原則の時代にも、「労働に応じた分配」は入り込んでいるのである。
つまり、総括的に言うなら、共産主義の低い段階でも高い段階でも、「労働に応じた分配」と「必要に応じた分配」が二大分配原則として存在するのだが、低い段階においては「労働に応じた分配」がより主たる原則で、高い段階においては「必要に応じた分配」がより主たる原則になると捉えるべきなのである。
だが、後者の分配原則が主たる原則として成立するためには、多くの社会的・経済的諸条件がいる。まず第一に、生産力の一定の高度の発展水準を必要とする。この条件は、この数十年来、エコロジストとの対立点であった。たしかに、現在よりもはるかに低い生産力水準のもとにあった時代のマルクスが生産力の豊かな発展を展望したさいに、その生産力が環境に与える不可逆的な負荷の深刻さや地球資源の有限性を念頭においていなかったのは、時代的限界であった。したがって、エコロジストの問題提起とマルクスの展望とが両立するためには、「必要」の範囲が、資本主義的コマーシャリズムによって悪無限的に膨張する欲望の範囲と根本的に異なったものでなければならないし、その必要を満たす手段はできるだけ共同的・社会的なものでなければならないだろう。
たとえば、現在日本に7000万台ものクルマが存在するが、その多くは無駄なものである。公共交通の発達によってそのほとんどは代替可能であり、それによってより豊かな環境、安全で静かな日常などを手に入れることができるだろう※。軍事にかかっている莫大な人的・物的資源もすべて無駄である。商業的宣伝に用いられている膨大な資源も多くは無駄なものである。したがって、現在の先進資本主義国の到達している生産力でも、多くの無駄な生産やサービスをなくし、社会的間接費を最小限のものにすれば、実はすでに「必要に応じた分配」をかなりの程度実現することができるのである。
※注 ちなみに、このクルマ問題に対する不破の認識を示すのが、「日本共産党創立81周年記念講演会」における次のような一節である。
「自動車をこれだけ増やしても、それが大気汚染を増やさないようにするためにはどういうことが必要か。こういう計画がはじめて本物の形で問題になるようになります」。
これは生産手段の社会化の「効能」について述べた部分だが、ここには、クルマを抜本的に削減し、公共交通を充実させるという視点はまったくない。今ではヨーロッパの資本主義国でさえそうした試みが進みつつあるというのに、不破の認識の貧困さには驚かされる。彼にとっては環境問題は原発問題と同様、基本的に技術問題にすぎないのである。
第二に、マルクスが言うように、労働相互の関係と労働の性質そのものが変化し、労働そのものが第一の生活欲求とならなければならない。人々が、生活の必要から労働を強制されないかぎり労働しないという状態にあるかぎり、もちろんのこと、共産主義の低い段階に社会はとどまるだろう。
以上のことから明らかなのは、環境や消費や労働に対する人々の関係と意識とが今日と根本的に変わらないかぎり、共産主義の高い段階は訪れないということである。生産力と技術の機械的な発展によって自動的に共産主義の低い段階から高い段階への移行が生じるのではない。それはすぐれて意識的、政治的過程である。そして、共産主義の低い段階における集団的経験は、そうした意識変革のための実地の学校となるだろう。
以上のような社会発展の展望は何ら空想的なものではなく、「共産主義」を名乗るうえで最低限必要なものである。たしかに、「労働に応じた分配」と「必要に応じた分配」の原則それ自体は、さまざまな空想的社会主義者が真に公正な分配として構想し提唱したものであるが、それらはマルクスの手によって、真に科学的な展望の一モメントとして止揚されたのである。
マルクスは単純に過去の空想的社会主義者・空想的共産主義者を否定したのではない。そのユートピア的構想に見られる進歩的・革命的要素を抽出し、それを科学的展望の中に正当に位置づけなおしたのである。もしそうでないとしたら、そもそも共産主義者と名乗ること自体、あるいは科学的社会主義という名称自体が虚偽になるだろう。なぜなら、過去の空想的社会主義者や空想的共産主義者と本質的な点での連続性がまったくないとしたら、そもそも「社会主義」や「共産主義」という名称を用いる理由などないからである。
もちろん、マルクスが最も努力を集中したのは資本主義的生産関係の分析であり、その変革の展望であった。分配についてはことのついでにしか論じていないし、『ゴータ綱領批判』ほど踏み込んでこの問題を論じたマルクスの文献は、他にはない。それは、生産関係こそが経済の中心的領域であり、しかるべき生産様式にはしかるべき分配様式が必然的に伴うだろうという確信がマルクスにあったからである。そのレベルでなら、われわれはもちろん、不破の言い分に同意する。だが、『ゴータ綱領批判』で明らかにしたマルクスの社会発展の展望の基本的な正しさを不破が否定しはじめ、それを誤った青写真主義であるとみなすならば、われわれは、マルクスの探求はさまざまな現代的な修正を加えた上で今日にも通用する内容をもっていると反論するだろう。