綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(下)

43、国家の死滅(1)――国家死滅の諸段階

 綱領改定案は、生産手段の社会化の効用についていろいろと述べたのち、国家の死滅論について話を進めている。次にそれを見てみよう。綱領改定案は次のように述べている。

 「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」。

 この記述によれば、国家が死滅するのは、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ」たときであり(つまり、社会主義・共産主義の社会では国家が存在する!)、「搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき」であるとされている。現行綱領では、共産主義の段階に到達したら国家権力が不必要になると説明されていて、「搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき」という条件も存在していない。スターリニズムの基本的命題として、過渡期ではなく社会主義段階における国家の存在を承認することが挙げられるが、不破指導部は二段階説を放棄することによって、基本的に社会主義・共産主義社会において国家は存続しつづけるという立場をとるにいたったのである。
 この問題について不破は、「質問・意見に答える」の中で次のように説明している。

 「いま私たちが『社会主義・共産主義の社会』と呼んでいる未来社会と現在の資本主義社会のあいだに、過渡期の段階がある、この点についてのマルクスの指摘は、現在でも、基本的には妥当するものだと思います。
 この過渡期には、国民の多数が社会主義・共産主義をめざそうという意思をかため、その前進の努力を開始する、という時期ですが、これをよしとしない階級勢力がなお存在していて、さまざまな闘争が続きます。そこでは、国家は、『社会主義をめざす権力』という階級的性格をもつ存在として残っていて、必要な役割を果たす、そういう社会です。
 この過渡期が終わると、ともかく大局的には『社会主義・共産主義の社会』ができあがったといえる段階がやってきます。そのとき、国家はどうなるのか。社会主義に前進しようという勢力とこれをおしとどめようという勢力との階級闘争などは、すでに過去の話になったという段階ですから、階級的な性格をもった国家は、もういらなくなります。
 しかし、マルクスもレーニンも、階級がなくなったから、ただちに国家がなくなるとは、単純に考えませんでした。国家は死滅する、共同社会のなかで、強制力をもった国家としての機能が次第に無用なものとなり、次第に眠りこんでゆき、長い時間がかかっても、最後には社会から消滅するだろう、と考えたのです。これが、国家の死滅という見通しです。
 綱領の改定案が、『原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会』として描いているのは、社会のこうした発展方向を示したものです」。

 この説明は、綱領改定案の実際の叙述とまったく適合していない。まず第一に、綱領改定案では、そもそも、現行綱領の欠陥を受け継いで、過渡期と社会主義・共産主義社会とのあいだの区別が設けられていない。綱領改定案のどこにも「過渡期」という言葉はない。不破は、「質問・意見に答える」で「第16節の全体を、過渡期のこととして読んでもらいたい」などと述べているが、第16節のどこにもやはり「過渡期」とは一言も書かれていないし、そもそも、時間的に先に来るはずの過渡期の記述が、綱領改定案で社会主義・共産主義社会の記述(第15節)より後に来るのは、混乱を生むだけだろう。
 第二に、綱領改定案では、社会主義・共産主義段階における国家の死滅の開始については何も語られていないし、「社会主義をめざす権力」が社会主義段階で階級的性格を失うなどとも書かれていない。綱領改定案の叙述を素直に読めば、社会主義的変革の出発点に成立した「社会主義をめざす権力」がそのまま延々と存続し、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ」たときにようやく死滅するという論述になっている。これは、基本的に一国社会主義論に立っている現行綱領の立場を継承したものであり、それを「共産主義の二段階」説を放棄したことによって、国家死滅の段階がさらに先延ばしにされただけのことである。
 さらに、ここで不破は、国家が「死滅する、共同社会のなかで、強制力をもった国家としての機能が次第に無用なものとなり、次第に眠りこんでゆ」くという発想をマルクスとレーニンに共通のものとしているが、このような「国家死滅論」は基本的にエンゲルスのものであって、マルクスのものではない。マルクスは基本的に、過渡期が終われば、国家は政治的・階級的性格を失って、国家ではない共同事務執行機関が存在するようになるという立場であった。国家がしだいに眠り込んでゆくという立場を唱えたのは、『反デューリング論』のエンゲルスである。そしてレーニンは『国家と革命』において、この立場をエンゲルスから受け継ぎ、それをさらにマルクスの『ゴータ綱領批判』における「共産主義の二段階」説と結びつけて独自の国家二段階死滅説を唱えたのである。したがって、マルクスとレーニンの立場も同じではない。

 ※注 より厳密に言えば、レーニンは『国家と革命』において国家死滅の三段階説を唱えている。第一段階は、プロレタリア革命を通じて、旧ブルジョア国家の中央集権的・専制的・寄生的性格を破壊し、コミューン型の半国家にする段階である。第二段階は、過渡期が終了して国家の階級的性格がなくなる段階である。しかし、共産主義の低い段階に対応して「ブルジョアなきブルジョア国家」が残る(ブルジョア的権利である「労働に応じた分配」を厳格に実行するために国家の強制力が残る)。第三段階は、共産主義の高い段階と結びついた完全な死滅段階、である。このときにはすでに「必要に応じた分配」がなされるので、もはや「労働に応じた分配」というブルジョア的権利を厳密に実行する国家も存在しなくなる、とレーニンは考えたのである。
 ちなみに不破は、本稿の「」で詳しく証明したように、この第一段階の旧ブルジョア国家の中央集権的・専制的・寄生的性格を破壊するという立場をこっそり放棄している。それなしには、第二段階以降もありえないのだから、最も重要なのは、ブルジョア国家機構の抑圧的性格を根本的に変革するという第一段階である。不破指導部は、それをこっそり放棄しておいて、国家死滅論だけは残しているわけである。

 実は、この「質問・意見に答える」での説明は、8月18日に党本部で行なわれた不破の『ゴータ綱領批判』に関する講義の立場と矛盾する。不破はそこでは、レーニンの『国家と革命』が「労働に応じた分配」説に規定されて、社会主義段階でもこのブルジョア的権利を厳格に実施する国家が必要であるとする立場をとっていたことを批判している。不破は、「マルクスの国家死滅論には、中間的存続論が入り込む余地はない」と題する節で、そうした社会主義社会における国家存続論がいかにマルクスの立場と矛盾しているかを詳しく証明し、次のように述べている。

 「以上の簡単な概観からでも分かるように、マルクスは、過渡期を経て、階級闘争や階級的抑圧の必要がなくなれば、中間段階なしに、政治的統治の諸機関が政治的性格をもたない管理諸機関に変わってゆく国家死滅の過程がすぐに始まることを想定して、その過程を論じています。もちろん、どんな過程にも、多かれ少なかれ過渡的な局面があることは避けられませんが、『ブルジョア的権利』の存在などが制度的な根拠となって、国家存続の中間段階が設定されるなどということは、マルクスの国家死滅論ではまったくありえない話でした」(『前衛』10月号、64~65頁)。

 以上の立場は、「質問・意見に答える」での説明と三つの点で大きく異なる。
 まず第一に、「質問・意見に答える」では、国家の死滅に関してマルクスとレーニンの立場が同じであるとされていたのに対し、『前衛』論文では両者は根本的に対立しているとみなされている。
 第二に、「質問・意見に答える」での説明では、国家が階級的性格を失う段階と国家が長期的に死滅していく過程とが区別されており、事実上、レーニンと同じ国家死滅の二段階説がとられているが、『前衛』ではもっぱらマルクスにのっとってそのような二段階説が自覚的に放棄されている
 第三に、「質問・意見に答える」では、国家の死滅過程はこれまでの伝統的立場に一致して、きわめて長期的なものが想定されていたが、『前衛』論文では過渡期が終われば「国家死滅の過程がすぐに始まる」とされ、その期間も「多かれ少なかれ過渡的な局面があることは避けられません」という程度のものに短縮されている。。
 わずか2ヶ月のあいだにこれほど重要な問題に関してまったく異なった立場が示されるのは、いったいどういうわけだろうか? それは、今回の綱領改定案における「共産主義の二段階」説の放棄が、十分な理論的探求と指導部での十分な内部討論を経て出されたものではなく、不破個人の思いつきによって出されているからである。まさにそれゆえ、すでに述べたように、この「共産主義の二段階」の呼称の起源に関しても、不破は2ヶ月間で3つの説を出すという混乱を示しているのである。
 さて問題を整理しよう。まず自覚すべきことは、過渡期終了後の国家のあり方に関して、マルクス、エンゲルス、レーニンの三者は異なった見解を持っていたことである。不破は、『前衛』論文でようやくマルクスとレーニンとの違いを理解したようだが、マルクスとエンゲルスの違いを理解していない。マルクスにおいては、過渡期が終われば、基本的に国家は階級的性格を失って、国家ではない共同事務機能を担う機関がそれに取って代わるという立場である。エンゲルスは、この過程をさらに具体的に考察し、過渡期終了後に国家が階級的性格を失う段階と、その後の段階とを区別した。エンゲルスは、国家が単に階級的抑圧の機関であるというだけでなく、社会の上にそびえたって強制力を市民に行使して共同体の秩序を守る存在として、より広い意味でも理解している。そこで、この面での国家も、社会主義の発展とともにしだいに眠り込み、死滅するだろうと考えた。レーニンは、エンゲルスのこの国家死滅二段階説を受け継ぐとともに、それを『ゴータ綱領批判』における「共産主義の二段階」説と結びつけて、なぜ、国家が階級的性格を失ってもただちに死滅しないで、しばらくは残るのか、その経済的根拠は何かを探求し、その根拠を「労働に応じた分配」というブルジョア的原則に見出した。
 この立場はたしかにマルクスと異なり、レーニン独自の理論である。これは、分配法則のあり方の変化と関連させて、「国家」の性格変化を論じたものとしてなかなか秀逸であり、マルクスにない理論だからといってただちに放棄すべきものとはかぎらない。この国家死滅二段階説は、国家の死滅論としてではなく、過渡期終了後の社会全体の共同事務機能を担う中央および各地方の機関(基本的に、今日と同じく行政的機関、司法的機関、議会的機関の三者で構成されるだろう。ただしすべての機関において選挙原則と平等原則が貫徹されるだろう)の性格変化を探求した一つの重要な試みとして、独自に検討されるべきものである。
 つまり、まだ旧社会の母斑をたくさん身につけている共産主義の低い段階においては、社会の共同事務機能を担う機関は、国家と似た強制的機能をもたないわけにはいかないが(もちろんその場合でも、現在の階級国家の水準からすればはるかに小さい。なぜなら何よりも、軍隊や公安警察のようなものはなくなるし、貧困や不平等や権力の集中から生じる犯罪もほとんどなくなるからである。ただし、レーニンが考えた「労働に応じた分配」を厳格に実行するという機能はあまり重要なものではない。なぜなら、きわめて生産力が低く社会全体が極度に貧しい場合は、「分配」の公平さを厳格に実行するには相当の強制力が必要であるが、高い生産力を前提すれば、その面ではおおざっぱな指標で十分だからである)、その強制機能の範囲、規模、程度は、共産主義社会それ自身の発展とともにしだいに後景に退き、人間そのものが大きく変革され「必要に応じた分配」がなされる共産主義の高い段階においては、いちじるしく縮小されていくだろう、と考えることはそれなりに合理的である。
 ただし、その場合でも、強制が原則的にいっさいなくなる段階が来ると考えるのはユートピアであろう。むしろ、社会主義の段階であれ、共産主義の段階であれ、社会の共同事務遂行機関が社会の上にそびえたつ事実上の国家機関のようなものに転化する危険性をあらかじめ理論的に排除してしまうほうが危険である。社会主義・共産主義社会においても、絶えざる下からの民主主義的チェックと統制、必要とあらば民主主義的な大改革が必要であろう。それは永続的な民主主義的改良と改革の過程となるだろう(この点では、レーニンの『国家と革命』が言う「民主主義の死滅論」は明らかに行き過ぎた議論である)。
 さて、レーニンの国家死滅二段階説はその後、スターリン時代に独特の仕方で継承されることになる。すなわち、第一段階の国家死滅論は、スターリンの一国社会主義論が党是・国是となるなかで忘れ去られ(ついでに過渡期社会論も忘れ去られる)、後者の第二段階だけが残された。現行綱領もこの見地を基本的に受け継いでいる。現行綱領は、過渡期について何も述べておらず、社会主義社会における国家の死滅の開始についても何も述べていない。それと同時に、共産主義の高い段階においては、国家が死滅するだけでなく、強制力そのものが不要になるという想定がなされている。綱領改定案は、「共産主義の二段階」説と結びついた記述をなくしたが、それ以外の想定はそのまま受け継いでいる。
 不破は、『前衛』論文の中で、レーニンの『国家と革命』における国家二段階死滅説がレーニン独自のものであり、それがのちにスターリンによってソ連社会美化に利用されたことを正しく指摘しながら、肝心要の「一国社会主義」論の問題性については何も語っていない。もし不破の言うように、国家存続の中間段階を設けるのが間違いで、国家はすでに社会主義段階で死滅を開始しなければならないとしたら、「一国社会主義」など存在すべくもないはずである。しかし、不破は、スターリンとトロツキーとの闘争において正しかったのはスターリンであり、スターリンの一国社会主義論はレーニンにもとづいたものであるという伝統的スターリニズムの立場をあいかわらず堅持している。
 この矛盾が、綱領改定案において、一方で共産主義の二段階説を放棄しながら、他方で社会主義・共産主義社会でも国家が存続するという立場を堅持するという「混乱」として現われているのである。本来なすべきは、「共産主義の二段階」説を修正のうえ保持しつつ、一国社会主義のドクマを放棄することであった。不破は、やるべきことの正反対のことをやり、それでいて、『前衛』論文では「一国社会主義論」の理論的前提を否定することを平気で述べているのである。

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