綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(下)

45、社会主義的変革の過程と形態

 次に第16節に入ろう。ここには、「一歩一歩の段階的な前進」であるとか、「国会の安定した過半数を基礎として」権力をつくるといった、不破指導部のこの間の基本姿勢を示した表現が見られる。しかし、これらの問題についてはすでに、これまでさんざん論じてきたので、ここでは、新たに出されている論点の検討に移ろう。

  生産手段の社会化の形態
 綱領改定案は、生産手段の社会化の形態について次のように述べている。

 「生産手段の社会化は、その所有と管理が、情勢と条件に応じて多様な形態をとりうるものであり、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要であるが、生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない。『国有化』や『集団化』の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」。

 生産手段の社会化の諸形態については、ここで言われているように多様なものが考えられるし、それを今から特定化することは得策ではない。国有、自治体所有、協同組合所有などの多様な形態が試みられるだろう。社会化する企業の規模と重要度に応じて、いずれかの所有形態が有効なものになるだろう。基幹産業の大企業の場合は、国有化が社会化の基本的形態になるだろう。規模が小さい場合には、協同組合所有が主要な形態になるだろう。中間的な企業の場合は自治体所有も選択肢に入る。いずれにせよ、所有形態だけが問題ではない。どんな所有形態であろうと、国家官僚や協同組合官僚が事実上の支配者に転化しないよう、絶えざる下からのチェックと統制、労働者民主主義の発揚、執行機関の適時の交代と刷新が必要であろう

 ※注 この問題に関して、最近、協同組合所有を絶対化する意見が講壇マルクス主義者のあいだでしばしば見られる。彼らは、ソ連経済の失敗の最大の原因は生産手段を国有化したことにあるのだと単純に理解し、国家の権力を強めるような社会化は言語道断であり、晩年のマルクスが示唆したように、協同組合化こそが真の正しい社会化の形態であると主張している。これは、かつてのソ連の指導者たちが国有化を物神崇拝したのと同じ誤りをただ裏返したものにすぎない。これらの講壇マルクス主義者たちは、特定の所有形態を絶対化し、あたかもこの所有形態そのものが官僚化や専制支配をあらかじめ防いでくれる保障になると信じているようである。
 しかし、いずみ市民生協事件がはっきりと示しているように、協同組合においても官僚の専制支配は十分に起こりうる。また、国有化をすれば国家の権力を強めるという推論も俗説にすぎない。サッチャー政権は戦後イギリス史上最も強権的な政権であったが、この政権は最も民営化、市場化を推進した。同じく、今日、時に軍事力を含む巨大な権力が行使される中で、世界的な民営化、市場化、規制緩和が遂行されている。日本でも、中曽根政権や小泉政権のように強権的政権ほど、公共企業体の民営化を強行している。また、企業内部のヒエラルキーと専制支配も、私企業ほど強力である。
 国有化それ自体が専制国家を生むのではない。国有化の具体的なあり方、日常の管理・運営における労働者民主主義の有無、そして国家的規模での民主主義の存在の有無とその水準、対抗的な中間団体の存在、等々によって決まってくるのである。

 さて、生産手段の社会化の諸形態について、不破は「日本共産党創立81周年記念講演会」で次のように説明している。

 「『社会化』の形はいろいろあると思います。協同組合をつくることもあるでしょう。国有化という場合もあるでしょう。その他の新しい形態も生まれてくるでしょう。しかし、どんな場合でも『生産者が主役』です。現実に工場で機械を動かしている働く人たちが主役にならない改革が、社会主義になるはずがありません。つぶれたソ連のように、資本家の代わりに上から官僚が任命されてきて、それが勝手に工場をきり回す、というのでは、名前が変わるだけであります。
 だから私たちは綱領改定案の中でも『生産者が主役』、これが原則だ、『生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連』の二の舞いは厳しくしりぞけることを、はっきりさせました」。

 ここで言われていることそれ自体は、まったくそのとおりである。惜しみなく拍手しよう。だが問題は、はたして共産党にそのようなことを達成することができるのか、ということである。
 まず第一に、どんな党であれ、自己の内部で実現している民主主義以上のものを外的に実現することはできない。「生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の二の舞を厳しくしりぞける」と何十回叫ぼうとも、それによってこの誤りを回避することが保障されるわけではない。共産党の内部体制は、「党員が主役」というべき状況からほど遠い。この点についてはすでに繰り返し述べてきた。党員を抑圧する官僚体制を内部につくっている党が、どうして「生産者が主役」の経済体制を外部につくりえようか。
 第二に、共産党員が経営を担っているいわゆる「民主経営」の実態もまた、「生産者が主役」という言葉のむなしさを示している。いずみ市民生協事件をはじめ、社会問題化した民主経営の腐敗した状況のみならず、それにいたらないまでも官僚主義と労働者抑圧が横行している各地の民主経営の実態は、「生産者が主役」という掛け声が空文句にすぎないことを教えてくれている。
 第三に、不破綱領案が市場経済を事実上絶対化していることも、「生産者が主役」というスローガンの虚妄性を示している。この点については、節を改めて論じよう。

  計画経済と市場経済
 すでに簡単に言及したが、現行綱領にある「計画経済」という言葉が綱領改定案では完全に削除されている。なるほど、綱領改定案にも、「経済の計画的な運営」や「計画性と市場経済とを結合」という言葉もある。だが、「計画経済」という用語は慎重に避けられている。これはけっして偶然ではない。たとえば、後者の表現は現行綱領では、「計画経済と市場経済の結合」となっている。なぜあえて「計画経済」という言葉を「計画性」に置きかえたのだろうか?
 その理由は推測するしかないが、「労働に応じた分配」や「必要に応じた分配」という原則を放棄したこととあわせて考えるならば、少なくとも過渡期においては、場合によっては社会主義・共産主義社会においても、財の分配を「市場原理」を中心に考えているからではないだろうか。市場原理が基本的に貫徹される経済が「市場経済」であるから、それに計画性が上から加味されたとしても、あくまでもその経済は「市場経済」であると考えられているのではないだろうか。
 実際、綱領改定案では、市場経済を通じた社会主義への道というものが絶対的なものとして提示されている。

 「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。社会主義的改革の推進にあたっては、計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営、農漁業・中小商工業など私的な発意の尊重などの努力と探究が重要である」。

 社会主義革命が起こっても、過渡期のあいだは市場経済が広範に残されることは疑いない。それを人為的に廃棄しようとする試みは、ロシアの戦時共産主義の場合と同じく手痛い失敗をこうむるだろう。しかし、この事実は、「市場経済を通じて社会主義に進む」ことと同一ではない。ロシアのような後進国においては、そもそも市場経済それ自身の発達がいちじるしく遅れていた。総生産物の3分の2近くは農民自身によって自家消費され、市場に出なかった。それゆえ、市場経済の発展なしには経済の発展もなかったし、革命指導部があれこれの手段を通じて商業を刺激し、それによる生産増進の水路を社会主義に向けることによって社会主義建設を行なうことは不可避であった。しかし、経済と市場すでにきわめて高度に発達している日本では根本的に事情が異なる。日本では、何よりも、いきすぎた市場原理の制限、市場経済の制約と押さえ込みこそが、社会主義建設の第一の仕事になるし、ならなければならない。
 しかし、このような観点は不破にはまったく見られない。たとえば、「日本共産党創立81周年記念講演会」で不破は次のように得々と述べている。

 「第三は、『市場経済を通じて社会主義へ』という道筋の問題です。いまは中国やベトナムがこの道に取り組んでいますが、日本でも当然この方向になると思います。
 市場経済といいますと、何か資本主義と同じものだと思っている方もおいでですけれども、市場経済というのは自由に商品が売買され、市場で競争し合う仕組み、体制のことです。これは資本主義に向かう道筋にもなれば、条件によっては社会主義に向かう道筋にもなりうるのです。
 日本はいま、資本主義的な市場経済が支配している国であります。そこで私たちが将来社会主義への道に踏み出すとしたら、資本主義的市場経済のただなかに、社会主義の部門が生まれることになるでしょう。もちろん、そこには資本主義の部門が残っていますから、社会主義の部門と資本主義の部門が同じ市場の中で競争し合うことになるでしょう。社会主義の部門が能率が悪くて、製品の出来も悪かったら、そういうだめな社会主義は当然、市場で淘汰(とうた)されます。そういう過程をへながら、経済の面でも一段一段、国民の目と経験で確かめながら、社会主義への段階を進む。当然、日本はこういう道筋をたどるでしょう。
 昔、レーニンも、革命後のロシアで同じことをやって、“市場経済での競争で資本主義に勝てる社会主義をつくろうじゃないか”という合言葉をうち出したことがありました。これは実に見事な合言葉だったと思います」。

 この引用文から明白なように、きわめて経済の遅れた国であったベトナムや中国と、経済のきわめて高度に発達した国である日本とのあいだの違いについてまったく考慮されておらず、まったく無前提かつ無条件に「日本でも当然この方向になる」と断言されている。そして、同じく今から80年も前のレーニンのスローガンが無批判的に「見事な合言葉」として称揚されている

 ※注 そもそもレーニンはネップの初期段階しか自分の目で確かめていない。レーニンはすでに1923年には完全に政治的指導から退いている。それ以前にも脳卒中の発作のため長期にわたって政治指導から離れていた。つまり、レーニンはわずか1年半程度しか実質的にネップを指導していないのである。そのようなきわめてごく初期段階の、ネップの発展方向についてもきわめて抽象的な理解しかなかった時代のスローガンを「見事な合言葉」として称揚する不破は、まさに生きた化石的存在であると言うほかない。
 不破は、レーニン死後のネップの発展、それをめぐるソ連指導者や経済学者の探求や試行錯誤を何一つ学んでいない。彼の知恵の源泉は、大月書店から出版されている日本語版『レーニン全集』のみである。レーニン死後からスターリンによる強制集団化に至るまでのわずか数年間でさえ、ネップをめぐって実にさまざまな知的・理論的・実践的探求がソ連で展開され、それは今日でも大いに学ぶべき価値のある財産になっている。たとえば、「品質の向上」一つとっても、消費者民主主義の発揚、労働組合の生産関与といった民衆の自治と自主管理を発展させる方向での問題解決を探求することが試みられていたのである。

 さらに見逃せないのは、不破がここで、「社会主義の部門が能率が悪くて、製品の出来も悪かったら、そういうだめな社会主義は当然、市場で淘汰(とうた)されます」とあっさりと言い切っていることである。つまり、そのような社会主義企業群は倒産して、そこで働く労働者はみな失業者になって当然、ということである(まさに現在の中国のように!)。新自由主義者か市場原理主義者の言い分ではないかと見間違うほどではないか。これは、赤字を作り出した国鉄は分割民営化されて当然、というかつての自民党の言い分とどう違うのか? 
 利潤のためではなく、社会的必要を満たすために生産を行なう公的企業がまったく同じ市場的条件で私企業と競争して効率性で勝利しようとするのは、ナンセンスである。もしそうしたとすれば、その公的企業は、当然、私企業と同じくリストラ合理化を遂行し、長時間過密労働を労働者に押しつけなければならないだろう。また、商品の安全性や環境への配慮、といった「非効率」的な側面を切り捨てなければならないだろう。
 そもそも不破は、市場を唯一絶対の審判者だと考えている。市場に任せておけば、つねに最もすぐれた製品が勝者になると考えているようだ。まったくの嘘っぱちである。化学物質を使わず、自然原料を用い、自然の持続可能性に配慮し、生産者にとっても消費者にとっても安全な食料品や衣料や化粧品などは、常に資本主義市場では片隅に追いやられている。市場はただ、資本主義的な意味で「すぐれた」商品(すなわち、コストが安く、大量生産可能で、欲望と浪費を駆り立て、環境や安全性にかかる費用を外部に転化できる商品)を勝者にするだけである。
 そして、市場で敗れた社会主義部門が淘汰されなければならないとしたら、その場合には、主役は生産者ではなく、市場だということになるだろう。「生産者が主役」なる美辞麗句はすべて完全な空文句になるだろう。逆に、市場で私企業を打ち破って勝利した社会主義企業は、形式的に生産手段が社会化されているだけの資本主義企業になるだろう。それは、事実上、官僚が支配者のソ連型企業とタイプは違うが、やはり生産者の自治からまったくかけ離れた企業となるだろう。
 現在、世界的に市場化、民営化、規制緩和が進行し、それとのたたかいが、今日における階級闘争と社会運動の最も重要な課題となっているときに、市場経済に対するこのまったく無批判的な言説を撒き散らし、共産党員の頭を混乱させようとする不破指導部の犯罪性は測り知れない。

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