マルクスの未来社会論と分配問題――『前衛』の不破論文批判

2、エンゲルスの分配論

 次に不破氏は、エンゲルスが1890年にコンラート・シュミットに宛てた手紙を引用している。それをここで全文再掲しておこう。

 「『フォルクス・トリビューネ』でも、未来社会における生産物の分配について、それが労働量に従っておこなわれるのか、それとも別の方法でおこなわれるのかについて、討論がおこなわれました。人々は、一種の観念論的な公正談議にたいして、問題をきわめて『唯物論的に』とらえはしました。しかし奇妙なことに、分配方法は本質的にはやはり、分配されるべきものがどれだけあるかにかかっていること、そしてこの分量はやはりおそらく生産と社会的組織との進歩につれて変化するであろうし、したがっておそらく分配方法も変化するであろう、ということには、だれひとり気づかなかったのです。そして参加者のだれにも、『社会主義社会』は不断の変化と進歩をたどるものとしてではなく、不動の、それきり変わらないもの、したがってまた、それきり変わらない分配方法をもつべきものと思われているのです。だが、分別をもってやれることは、ただ、(1)はじめに採用する分配方法を発見しようと試みること、(2)それ以後の発展のたどる一般的傾向を見いだそうとつとめること、だけです。しかし私は、討論全体をつうじて、この点にふれたことばをひとつも見つけません」(28~29頁)。

 不破氏は、この引用文の後半部分に注目し、次のように述べる。

 「問題は、この手紙の後半にあります。
 すなわち、『社会主義社会』とそこでの分配方法についての、論争者たちの固定的な形而上学的議論にたいして、エンゲルスが対置しているもの――『分別をもってやれること』としてエンゲルスが提起している二つの提案の内容です。
 エンゲルスは、まず第一に、『はじめに採用する分配方法を発見しようと試みること』をあげています。
 そこから、疑問が出てきます。『ゴータ綱領批判』が、未来社会の分配方武の問題についてのマルクス、エンゲルスの到達点だとしたら、エンゲルスはなぜ、『ゴータ綱領批判』で、共産主義社会の低い段階における分配方式だと規定された『労働に応じての分配』の原則を説明しないで、『はじめに採用する分配方法を発見しようと試みる』といったあいまいで不確定な提案をおこなったのだろうか。
 エンゲルスは、第二に、『それ以後の発展のたどる一般的傾向を見いだそうとつとめること』を提案します。ここでも疑問が出てきます。
 『ゴータ綱領批判』が到達点だとしたら、分配方法の発展方向は、『労働に応じて』から『必要に応じて』への移行・発展にある、ということを、なぜはっきりと説明しないのか。なぜ、ここでも答えが不確定な状態にとどまっているかのような回答をするのか」。(29~30頁)。

 しかしながら、エンゲルスの文章を読めば分かるように、その主たる論点はやはり『ゴータ綱領批判』での議論と矛盾していない。すなわち、分配方式は社会主義社会の内部でも同一ではなく、それは変化発展するものであること、しかも、「分配方法は本質的にはやはり、分配されるべきものがどれだけあるかにかかっていること」、そして「この分量はやはりおそらく生産と社会的組織との進歩につれて変化するであろうし、したがっておそらく分配方法も変化するであろう、ということ」、また、はじめに採用する分配方式が存在し、それ以後にたどる発展の「一般的傾向」が存在するということ、である。これは明らかに、そうははっきり言っていないが、社会主義社会においては最初に「労働に応じた分配」があり、次に「分配されるべきもの」の量の変化に応じて「必要に応じた分配」へと発展する「一般的傾向」が存在するということを念頭においての発言であることを示唆している。もしそうでないとしたら、どうして、「ゴータ綱領批判」と同じく、分配されるもののの量によって分配方法が変わる、などとエンゲルスは言ったのか、まったく説明がつかない。
 不破氏は、エンゲルスが「労働に応じた分配」にも「必要に応じた分配」にもはっきり言及していないことをしきりに問題にしている。だが、『ゴータ綱領批判』はあくまでもマルクス個人の見解である。マルクスとエンゲルスは多くの点で意見が一致していたとはいえ、両者はあくまでも別人格であり、マルクスが言ったことを絶対の真理としてエンゲルスがただちに信奉しなければならない理由はない。エンゲルスとしては、マルクスの分配論にそれなりの感銘を受け、説得力を感じただろうが、自分の意見として完全に採用したのではなかった(この点については後で再論する)。それゆえ、未来社会の分配様式について論じたとき、エンゲルスは、マルクスの分配論と矛盾しない言い方で、しかし明確な回答をぼかして議論したのである。
 したがって、不破氏が、別の箇所で出している「エンゲルスは、1895年に死ぬまでの20年間のあいだに、未来社会を論じる機会が無数にありながら、なぜ『ゴータ綱領批判』での分配論や二段階発展論に触れることを、いっさいしなかったのか」(31頁)という問いの答えも明らかであろう。エンゲルスは、マルクスの分配論を最後まで自分の意見として採用するにいたらなかった、あるいは十分にその意義を理解することができなかったので、マルクスの分配論を展開しなかった(あるいはできなかった)のである。ただそれだけのことである。
 不破氏は、いつでもどこでもマルクスとエンゲルスを一体にして考えすぎであり、それが多くの誤解や誤りの源泉になっている。すでにわれわれは、「綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(下)」で国家の死滅をめぐってマルクスとエンゲルスに違いがあったことを指摘し、そのことを不破氏が理解していないことを明らかにしておいたが、ここでも不破氏のこの無意識の思い込みが悪影響を及ぼしている。
 なお、マルクスに関しても不破氏は、「ゴータ綱領批判」の執筆から死ぬまでの8年間になぜこの分配論を再論しなかったのかと問うているが、その理由は第一に、そうする機会が二度と訪れなかったからである。「ゴータ綱領批判」で十分に自分の言いたいことを言い尽くしたのだから、それ以上とくに何かを言う必要はなかったのであろう。第二に、当時にあっては共産主義を主として分配の側から定義する傾向がなお強力であり、生産関係の問題を前面に押し出すことこそが主要な課題だったからである。

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