マルクスの未来社会論と分配問題――『前衛』の不破論文批判

 「綱領改定案と日本共産党の歴史的転換」(下)ですでに、『前衛』10月特大号に掲載された不破哲三氏の講義「『ゴータ綱領批判』の読み方――マルクス、エンゲルスの未来社会論」に若干言及し、その問題点を部分的に明らかにしたが、ここではこの講義を正面から検討する。ただし、国家論との関連でレーニンの『ゴータ綱領批判』解釈を取り上げた部分については、すでに先の論文でかなり詳しく論じたので、基本的にここでは、未来社会論と分配論をめぐるマルクス、エンゲルスの立場に関する不破氏の解釈のみを取り上げよう。
 なお、マルクス、エンゲルス、レーニンの古典からの引用はすべて、この『前衛』論文とその巻末資料に挙げられているものを用いることにする。なぜなら、基本的に不破氏と同じ材料を用いて不破氏の議論に反駁したいからである。したがって、訳文はあまりよい出来栄えではないが、それには目をつぶっていただきたい(なお頁数のみを上げたものはすべて、『前衛』10月号からのもの)。

もくじ

  1. 『資本論』の「慎重さ」と『ゴータ綱領批判』の「断定」
  2. エンゲルスの分配論
  3. 分配論を中心にした未来社会論?
  4. 未来社会と自由論をめぐるマルクスとエンゲルスの相違
  5. 未来社会論と党綱領問題

1、『資本論』の「慎重さ」と『ゴータ綱領批判』の「断定」

 不破氏はまず、例によってマルクス、エンゲルスの「科学の目」について語り、両者が未来社会の青写真を描き出すことを厳格に戒めていたという話をしたあと、不破氏は、それは分配問題でも同じであったとして、『資本論』第1部第1篇の商品論(物神崇拝論)の一節を出す。最も重要な部分のみを再掲しよう。

 「この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程度とに応じて、変化するであろう。もっぱら商品生産と対比するだけのために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定されるものと前提しよう」(26頁)。

 さて、不破氏は以上の引用部分にもとづいて次のように述べている。

 「こうして問題を整理したのち、マルクスは、第5段落から、未来社会の分配の問題に入るのですが、その論じ方は、『ゴータ綱領批判』とくらべて見ると、たいへん慎重です。
 マルクスはまず、分配の仕方は、『社会的生産有機体そのものの特殊な種類』によって、また『生産者たちの歴史的発展程度』に応じて変化する、ことを強調します。『ゴータ綱領批判』の場合には、共産主義社会の低い段階ではこうなる、高い段階ではこう変わると、かなり断定的なのですが、マルクスは、『資本論』では、同じ共産主義社会でも多様であり、歴史的にも変化する、ということを、第一の命題として押し出しています。
 つづいて、マルクスは、労働時間に応じての分配という一つの具体的方法をとりあげます。この分配方法そのものは、『ゴータ綱領批判』で、共産主義社会の低い段階の分配方式として説明するものと、基本的には同じなのですが、位置づけは大きく違っています。
 『ゴータ綱領批判』では、低い段階での分配方式は当然こうなるという断定調なのですが、『資本論』では、そうではありません。ここでは、こういう分配方法を『前提』するが、それは、『もっぱら商品生産と対比するだけのために』前提するのでみって、この段階ではこうなるという断定ではないのだ、ということを、わざわざ断っています。
 つまり、マルクスは、『資本論』では、『ゴータ綱領批判』での最初の段階の説明と同じように、『労働に応じた分配』の方式を問題にしてはいるのですが、これは、あくまで議論をすすめる上での仮定であって、これとは違う方式になる場合も当然ある、もともと分配方式というものは、社会の歴史的性格によっても違ってくるし、生産者たちの発展段階によっても変化するものだ、こういうことを繰り返し説明するわけです。分配方式については、それだけ慎重なのです」(27頁)。

 このように不破氏は、繰り返し『資本論』での記述の「慎重さ」を繰り返し、『ゴータ綱領批判』における「断定」との違いを強調する。あたかも、この「違い」に何か深い意味が隠されているかのようである。しかし、マルクスが分配の仕方を変化させる因子として「社会的生産有機体そのものの特殊な種類」だけでなく、「これに照応する生産者たちの歴史的発展程度」を挙げたとき、彼が念頭においていたのは、資本主義社会や共産主義社会といった社会構成体の違いによって生じる変化だけでなく、共産主義社会の内部でも「生産者たちの歴史的発展程度」の違いによって生じる分配方式の変化であろう。つまりは、共産主義の低い段階と高い段階における分配様式の違いである。ただ、そのことを正面から論じるような文脈ではなかったので、そのことを匂わせるだけにして、「労働に応じた分配」についてのみ、まさに商品生産社会と対比するために持ち出したのである。
 したがって、未来社会の分配方式をめぐって『資本論』と『ゴータ綱領批判』とのあいだに何らの矛盾もないばかりか、両者は深く一致しているとみなすべきである。
 さらに不破氏は、『ゴータ綱領批判』が書かれた時期が、『資本論』の第二版やフランス語版にすぐ続く時期であったのに、この部分の『資本論』の記述にほとんど変化がなかったことを指摘しつつ、次のように述べている。

 
 「マルクスは、『ゴータ綱領批判』では未来社会の分配論をあれだけ展開したのに、そもそもの原論にあたる『資本論』では、最初からの慎重な叙述を、最後まで変更しようとしなかったのです」(28頁)。

 またしても何かこの事実に深い意味があるかのように書かれているが、結局、だから何なのか、ということは言われていない。また、「そもそもの原論にあたる『資本論』では」と言うが、『資本論』は別に共産主義社会論の原論でもなんでもない。それはただ資本主義社会の運動法則を明らかにすることを目的としたものであり、未来社会論を本格的に論じるものではない。『資本論』の本源的蓄積論の最後の部分(有名な「収奪者が収奪される」や「個人的所有の再建」について書かれた部分)でも、わずかに未来社会についても論じているが、その記述もきわめて簡単である。あくまでも『資本論』は資本主義社会の運動法則を明らかにしたものなのだから、当然である。「そもそもの原論である」などと言うことによって、読者をミスリーディングしてはならない。

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