つづけて不破氏は、『ゴータ綱領批判』そのものの検討に移る。まず、『ゴータ綱領批判』が書かれた背景について詳しく紹介し、それが、ラサール派の誤った分配論を綱領の中に持ち込むことに対する反論として書かれたものであることを強調する。この点に関してはわれわれも異論はない。そのうえで、不破氏は、「分配問題を主軸にして未来社会の発展を描き出す」ことの誤りを述べ、その点については、『ゴータ綱領批判』におけるマルクスの注意書きで明らかだとしている。その注意書きにはなかんずく、次のように書かれている。
「俗流社会主義はブルジョア経済学者から……、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また取り扱い、したがって社会主義を、主として分配を中心にするものとして叙述することをうけついだ。真の関係がとっくに明らかにされているあとで、なぜふたたび逆戻りするのか」(43頁)。
不破氏は、この注意書きにもとづいて、次のように述べている。
「マルクスのこの注意書きを、いま読みなおすと、『ゴータ綱領批判』から、分配中心の未来社会論を組み立てる傾向が、将来現われるかもしれないことを予想して、そんなことは絶対してはならないよ、と釘をさした警告のようにも読めます」(44頁)。
問題は、『ゴータ綱領批判』の該当部分がそのような「分配中心の未来社会論」であるのかどうか、したがってそれに依拠したレーニンや現行綱領などの立場が「分配中心の未来社会論」であるのかどうか、であろう。
マルクスは言うまでもなく、レーニンも現行綱領も、「労働に応じた分配」が起こる前に、社会主義革命と資本主義的生産様式の廃棄という根本的な生産関係の変革が生じなければならないことを熟知していたのだから、そもそもブルジョア経済学や俗流社会主義並みの「分配を中心とした未来社会論」であるはずもないのである。もしレーニンや現行綱領が、そうした生産関係の変革と無関係に、「労働に応じた分配」の導入について語っていたとしたら、それは「分配中心の未来社会論」であろうが、言うまでもなく、そんなことはない。そもそも、社会主義革命の実現なしに資本主義社会の中で「労働に応じた分配」を導入すれば平等や公正が実現すると主張した者が、スターリンを含めて世界の共産主義運動の諸潮流の中にいたのかどうか、そんなばかげた意見が「定説」であるのかどうか、不破氏はきちんと語るべきだろう。
もちろん、そんな者は誰もいない。したがって、「共産主義の二段階」説のうちに「分配中心の未来社会論」を見ようとし、それに対するマルクスの警告を持ち出して「釘を刺して」も、それはまったく的外れの忠告なのである。
同じことは「労働に応じた分配」から「必要に応じた分配」への移行に関しても言える。マルクスは『ゴータ綱領批判』で、この分配様式の変化には生産面および社会全体でのさまざまな変化が必要であることをきちんと語っている。1「分業の下への諸個人の奴隷的な従属がなくなること」、2「精神的労働と肉体的労働との対立がなくなること」、3「労働が生きるための手段だけでなく、労働そのものが第一の欲求になること」、4「諸個人の全面的な発達にともなって彼らの生産諸力も増大し、協同的富のすべての源泉がいっそうあふれるほどに湧き出るようになること」、である(39頁)。こうした生産部面での変化を語ったのちに分配方式の変化を語っているのだから、明らかにマルクスのこの二段階説は「分配中心の未来社会論」ではない。
ではレーニンはどうか。レーニンは、『国家と革命』の中で『ゴータ綱領批判』の該当部分をまるごと引用した上で、とりわけ、「精神的労働と肉体的労働との対立がなくなる」という基準に注目し、この対立こそ「現代の社会的不平等の最も重要な源泉の一つ」としている。さらに、「分業と手を切り、精神的労働と肉体的労働の対立を廃絶し、労働を『第一の生命欲求』に転化する」という条件を繰り返している(82頁)。したがって、レーニンが、生産面および社会全体の決定的な変化を無視して分配様式の変化を語っていないことは明らかである。レーニンの未来社会論も「分配中心の未来社会論」ではない。
次に、現行綱領はどうか。まず61年綱領を見てみよう。そこでは次のように書かれている。
「共産主義のたかい段階では、生産カのすばらしい発展と社会生活のあたらしい内容がうちたてられるとともに、人間の知的労働と肉体労働の差別が消えさるだけでなく、『各人は能力におうじてはたらき、必要におうじて生産物をうけとる』ことができるだろう」。
このように、61年綱領は、「必要に応じた分配」について、共産主義の高い段階のさまざまな要件の一つとしてのみ挙げており、それ以外の要件はすべて『ゴータ綱領批判』にのっとって生産面および社会全体での変化である。61年綱領もまた「分配中心の未来社会論」でないことは明らかである。
現行綱領では次のようになっている。
「共産主義社会の高い段階では、生産力のすばらしい発展と社会生活の新しい内容がうちたてられ、社会は、『能力におうじてはたらき、必要におうじてうけとる』状態に到達する」。
違いは、61年綱領にあった「人間の知的労働と肉体労働の差別が消えさる」という要件が削除されていることである。これは、第20回党大会でなされた変更であり、この点について不破氏は当時、この差別の撤廃は「共産主義社会の高い段階までまたないでも、低い段階、すなわち社会主義社会の段階でも解決できる課題に変化しつつある」からだと説明している(『前衛臨時増刊 日本共産党第20回大会特集号』、124頁)。この判断の是非はおいておくとして、いずれにせよ、現行綱領も、生産面および社会全体の変化と無関係に分配様式の変化について論じたものではない。
不破氏は、こうした事実を完全に無視して、分配法則の変化を指標の一つとしてあげていることそれ自体を、「分配中心の未来社会論」であると歪めるているのである。