次に不破氏は、分配を中心として未来社会を捉えることにはもっと大きな危険があり、それは「人類史における共産主義社会の位置づけを、極端にきりちぢめてしまう」ことだと述べている。
「この議論によると、共産主義社会の高度な発展とは、『労働に応じて』の原則から『必要に応じて』の原則への発展だと、よく言われます。『必要に応じて』とは、言い換えれば、人間が、自分が欲するだけの生産物をいつでも自由に手に入れるようになることです。これが、理想社会の目標だとしたら、あまりにも寂しすぎる、わびしい話ではないででしょうか」。
このように述べて、不破氏は、マルクス、エンゲルスの未来社会論がいかに壮大でロマンに満ちているかを、マルクスとエンゲルスからの引用によって説明する。ここで、不破氏は、未来社会の「自由論」をめぐって、実はマルクスとエンゲルスのあいだに深刻な違いがあることをまったく理解していない。両者とも同じ自由論を唱えていたという無意識の前提に立って、両者からの引用をしている。そして、この両者の違いは、分配論をめぐる両者の違いとも結びついていた。そして、「生産手段の社会化」を未来社会論の永続的中心におく不破氏の考え方は実は、エンゲルスにもとづくものであって、マルクスにもとづくものではないのである。
不破氏がおこなっているマルクスの最初の引用は、『経済学批判』序言からのもので、「ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。……この社会構成体をもって人類社会の前史は、終わりを告げる」という文章である。しかしこれは、不破氏も述べているように、未来社会に直接触れているものではないので、ここでも検討を割愛しておこう。
次に不破氏が引用しているのは、エンゲルスの『自然の弁証法』と『反デューリング論』からの次のような引用である。
『自然の弁証法』……「物の生産と分配とを計画的に行なう社会的生産の意識的な組織ができてはじめて、人間は、社会的関係においても残りの動物世界から抜け出すことができるのであって、それは、生産一般のおかげでこれが人問に特有な関係においてなしとげられたのと同様である。歴史の発展によって、このような組織は日々ますます避けられないものになり、しかも日々ますます可能にもなっている。このような組織から一つの新しい歴史時代が始まり、そこでは人間自身が、また人間とともにその活動の全部門が、とりわけ自然科学も、従来のものをすべてはるかに凌駕する一大躍進をとげることになるであろう」(『前衛』10月特大号、44~45頁)。
『反デューリング論』……「これによって、はじめて人間は、或る意味で、決定的に動物界から分かれ、動物的な生存諸条件から抜けだして、本当に人間的な生存諸条件のなかへ足を踏み入れる。
いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する。人間は、いまでは、自分自身の社会的結合の主人となるので、また、そうなることによって、はじめて自然の意識的な本当の主人となる。……このときから、人間は、はじめて十分に意識して自分の歴史を自分でつくるようになる。このときから、人間が作用させる社会的諸原因は、はじめてだいたいのところ自分が欲したとおりの結果をもたらすようになり、また、その度合いもますます高まっていく。これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である」(45頁)。
不破氏はこれらの「気宇壮大」で「壮大さとロマンをもった共産主義社会」の「未来像」と比べて、「必要に応じて」を最大の旗印とした分配論的な未来像は「あまりにも貧弱」であるとし、「前者では、未来社会が人類社会のかぎりない躍進の新時代としてとらえられているのにたいし、後者は、主として人間の消費生活の側面から未来をとらえるという一面性を、まぬがれえません」(45頁)と述べている。このような判断は、後で述べるようにまったく的外れで、いかに不破氏がマルクスの思想を理解していないかを如実に示すものであるが、ここでは、とりあえず、エンゲルスの主張を確認しておこう。
エンゲルスは、『自然の弁証法』では、人間が「動物世界から抜け出す」ことの内容として「物の生産と分配とを計画的に行なう社会的生産の意識的な組織ができ」ることを挙げており、また『反デューリング論』では、「自由の国」の内容として、「人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する」こと、人間が「自分自身の社会的結合の主人となる」ことを挙げている。どちらも言っている内容はほぼ同じであり、基本的に、生産手段の社会化をてこにして、計画的な生産を行ない、自然や物質的生産を人間の統制と意識のもとに服させることが、「動物世界から抜け出す」ことであり、「必然の国から自由の国への人類の飛躍」の内容であるとされている。この点をしっかり確認しておこう。
さて次に、不破氏によるマルクスからの引用に移ろう。不破氏は、『資本論』第3部の三位一体定式を論じた部分から次の文章を引用する。
「自由の王国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。未開人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも、すべての社会諸形態において、ありうべきすべての生産諸様式のもとで、彼〔人〕は、そうした格闘をしなければならない。彼の発達とともに、諸欲求が拡大するため、自然的必然性のこの王国が拡大する。しかし同時に、この諸欲求を満たす生産諸力も拡大する。この領域における自由は、ただ、社会化された人間、結合された生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって――盲目的な支配力としてのそれによって――支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、すなわち、最小の力の支出で、みずからの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうこと、この点にだけありうる。しかしそれでも、これはまだ依然として必然性の王国である。この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国が――といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にめみ開花しうるのであるが――始まる。労働日の短縮が根本条件である」(46頁、強調は本稿筆者)。
この文章をよく読めばわかるように、「自由の王国」に関して、エンゲルスとマルクスではまったく違う意見が表明されている。エンゲルスにあっては、計画的な生産をおこなって物質的生産を人間の統制と意識に服させることが「自由の国への飛躍」であるとされていたのが、マルクスにあっては「社会化された人間、結合された[連合した]生産者たちが、……この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと」はまだ「依然として必然性の王国」にとどまっており、「自由の王国」は、もっとその先にあるのだ、としている。この違いは誰の目にも明らかだと思われるが、不破氏は自分で引用しておきながら、この違いにまったく気づいていないようだ。
マルクスが言うところの「社会化された人間、結合された[連合した]生産者たちが、……この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと」は、共産主義社会の低い段階に相当する。この段階では、たしかに、生産(「自然との物質代謝」)を連合した生産者たちの共同の管理においているという点では、一定の自由を獲得しているが、しかしそれはまだ物質的生産の必要性に縛られ、人は生きるために労働をするという水準にある。「労働日の短縮が根本的条件である」というここでの記述と『ゴータ綱領批判』での記述を思い起こせば、この先にあるものとは、明らかに、労働そのものが第一の欲求になり、協同的富のすべての源泉がいっそうあふれるほどに湧き出るようになるという共産主義の高い段階であろう。なぜなら、生産力の高度な発展なしには「労働日の短縮」は不可能だからである。
そしてこの段階ではもはや、高い生産力を前提にして、労働は生きるためにやむを得ずおこなわれる労苦ではなくなり、人は、自分たちが生きていくために必要なものを必要に応じて入手することができるようになる。もはや人は、いっさい生活の心配をすることなく、自分の人生を自由に生きることができるようになる。これこそ「物質的生産の領域の彼岸」にある「自由」である。
以上のことから明らなように、エンゲルスの自由論が基本的に「生産手段の社会化」による生産の計画的運営という段階(共産主義の低い段階)にとどまっているのに対し、マルクスの自由論は、その段階を超えて、労働そのものが「第一の欲求」となり、「必要に応じた分配」がなされる段階(共産主義の高い段階)にまで進んでいる。結局、エンゲルスが「共産主義の低い段階」での自由論にとどまったのは、彼が『ゴータ綱領批判』におけるマルクスの二段階論の意味を十分に理解していなかったからであると考えられる。また、彼独特の自然科学的な社会観も関係していると見るべきだろう。人類が自然科学にもとづいて自然界にアプローチし、こうして自然を支配するのと同じアナロジーで、今度は生産手段の社会化と計画経済にもとづいて社会に科学的にアプローチし、社会を管理するというのが、エンゲルスの基本的な発想なのである。
不破氏はエンゲルスのこうした見方を受け継いでおり、それゆえ、「生産手段の社会化」が資本主義社会から社会主義社会への変革の中心とみなされるだけでなく、共産主義社会の発展過程全体を支配する中心軸だとみなしているのである。不破氏にあっては、このような観点は基本的にずっと以前からのものであったが、「定説」にしたがって共産主義の二段階説も形式的には維持されていた。しかし、不破氏は、この自然科学的社会観にもとづいて自分の認識を首尾一貫させるにいたり、マルクス主義世界の「定説」である「共産主義の二段階」説に宣戦布告し、それを公然と放棄するにいたったのである。
ただ不破氏は、この問題でマルクスとエンゲルスが異なった意見を持っていた可能性にまったく考えが及ばなかったので、『ゴータ綱領批判』でのマルクスのきわめてはっきりとした見解の前に当惑し、エンゲルスがこの問題で何も確定的なことを述べていないことを持ち出すことで、この『ゴータ綱領批判』を相対化し、最終的に「この時点での試論」(48頁)にすぎないとして片づけることにしたのである。
ところで不破氏は、この文脈の中で、「必要に応じた分配」原則について次のように述べている。
「分配論的な未来社会論が、発達した共産主義社会の目標としているのは、『能力に応じてはたらき、必要に応じてうけとる』でした。『能力に応じてはたらく』も、これは物質的生産――『必然性の王国』に属する話です。『必要に応じてうけとる』も、生産物の分配と消費の問題であって、やはり『必然性の王国』に属する話です。これが、マルクスの共産主義社会論だと思い込んだら、未来社会の真の値打ちが発揮される舞台――『真の自由の王国』が、未来社会論から消しさられてしまうことになるではありませんか」(47頁)。
まったくマルクスの思想を理解していない発言である。「能力に応じてはたらく」が「物質的生産――『必然性の王国』に属する話」だというが、不破氏の想定する「自由の王国」では、誰も働かなくていい社会が実現しているとでも言うのだろうか。まさか! 物質的生産は常になされなければならない。社会全体として労働の必要性そのものは消えない。しかし、生産力の高度の発展によって、直接的な物質的生産に必要な時間が大きく短縮されることで自由時間が増えるとともに、個々人がおこなう労働は、その個人が生きていくために社会的・経済的に強制される労働ではなくなり、それ自身が自由の行為となる。なぜなら、「必要に応じた分配」がなされるからである。現代社会において人が労働(賃労働)をするのは、そうしないとすぐ明日のおまんまの問題が生じるからである。それは自由の行為ではなく、あくまでも強制された労働である。「労働に応じた分配」の社会でも、同じような制限が残る。だが「必要に応じた分配」の行なわれている社会では、この糊口問題は基本的に生じない。人は自由の行為として労働をする。それは、現在でも人がボランティアや社会活動などに喜びを感じているのと共通しているが、未来社会ではすべての労働がこのような自発的性格を持つようになるということである。
不破氏は、「必要に応じた分配」さえも「生産物の分配と消費の問題」だから「『必然性の王国』に属する話だ」と断言しているところから見て、どうやら彼は、「自由の王国」が物質的生産とまったく無関係なところで成立するものであると考えているようである。しかし、そのような王国を支える膨大な物質的手段はいったいどこから生じるのか? まさか天から降ってくるとでも? あるいは、永遠の動力で動く完全自動機械がいっさいの必要物を自然界から作り出してくれると想像しているのだろうか?
マルクスが言う「自由の王国」が実現する物質的基盤こそ、『ゴータ綱領批判』で彼が列挙した「共産主義の高い段階」の諸条件、すなわち、分業への隷属の廃棄、精神的労働と肉体労働との対立がなくなること、労働そのものが第一の欲求となること、協同的富があらゆる源泉からあふれ出ることであり、そしてそれらの条件に規定されて「必要に応じた分配」がなされることなのである。このような物質的・経済的諸条件があってはじめて、「自由の王国」が成立するのである。