第23回党大会と不破綱領の本質

8、世界情勢の諸問題(3)――新しい帝国主義論の反動的本質

 世界情勢論における第3の論点は帝国主義の問題である。不破報告はこの問題について次のように述べている。

 「つぎに世界資本主義の政治的諸矛盾の問題ですが、7中総の報告のなかで『独占資本主義=帝国主義』という見方が、現代の条件のもとでは一般的には成り立たなくなったこと、したがって、すべての独占資本主義国をその経済体制を理由に一律に『帝国主義の国』として性格づけることは妥当でないことを、指摘しました。これも20世紀における世界の様相・構造と力関係の変動のなかで、何よりも植民地体制の崩壊という大きな変動のなかで起こったことであって、そこをよく見ることが必要であります。」

 だが、これまでの帝国主義認識を改める最大の根拠が、戦後における植民地体制の崩壊だとすれば、どうして共産党指導部は、その変化が生じてから50年以上もたってからようやくその事実に気づいたのか? いったいこの50年間、共産党指導部は、誰もが知っているこの事実に気づくことさえなく、戦前と同じ植民地体制がまだ続いているという白昼夢にふけっていたというのか? もちろんそんなことはありえない。61年綱領の確定以前から、わが党は一貫して、戦後における新しい国際的支配体制の確立をふまえて、独占資本主義諸国が基本的に今日でも帝国主義国でもあることを主張してきたのである。それはすでに引用した旧綱領の一節にも明らかであるし、1960年代に無数に書かれた現代修正主義批判の諸論文にも明らかである。
 そして、これも過去の『さざ波通信』で書いたことだが、何よりも不破自身が、このことを最も居丈高な形で主張し、かつての仲間である構造改革派の論客たちをなで斬りにしていたのである。そのことについて一言も自己批判することなく、あたかも自分以外の誰も戦後における植民地体制の崩壊に気づいていないかのごとく、新しい帝国主義論(実際には陳腐な帝国主義美化論)を得意げに開陳しているのだから、まったく驚きである。不破哲三の卑劣さと不誠実さにはいかなる限度もない。
 また、不破報告は、戦後の世界の変化として、すでに述べたように植民地体制の崩壊のみを強調しているが、同じだけ大きな意味をもっているソ連・東欧圏の崩壊と冷戦の終結の重要な意義については何も述べていない。このソ連・東欧圏の崩壊こそが、今日における新自由主義的グローバリズムの席捲とアメリカ帝国主義によるより露骨な帝国主義的政策の重要な要因になっているにもかかわらず、そのことについて何も言及されていない。
 不破の国際情勢認識は、どうやら50年遅れているようである。21世紀にもなってようやく戦後の植民地体制崩壊に意義について気づき、1990年前後に生じたソ連・東欧の崩壊の重要な意義についてはいまだ気づいていない。それはただ、「世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった」ものとしてしか理解されていない。宮本時代の進歩的・積極的な遺産をあっさりと否定しつつ、その時代の最も無価値な遺産(典型的には冷戦非終結論やソ連崩壊万歳論――実際には、最初はソ連共産党崩壊万歳論にすぎなかったのが、「ソ連崩壊」にまでなし崩し的に広げられたのだが)だけはしっかりと保持しているのである。

 次に不破は、自己の独特の帝国主義論(実際には古くさい帝国主義美化論)を正当化するために、次のように述べている。

 「改定案は、この基準で、アメリカの対外政策が、文字どおり『帝国主義』の体系的な政策を表していることを解明し、そういう内容を持って『アメリカ帝国主義』という規定をおこなっています。そうであるからこそ、綱領のこの規定は、アメリカの政策の核心をついた告発となっているのであります。
 かりに、いまの世界で、『帝国主義』とは、経済が独占資本主義の段階にある国にたいする政治的な呼び名だというだけのことだとしたら、いくら『帝国主義』といっても、その言葉自体が政治的告発の意味を失い、そう呼ばれたからといって誰も痛みを感じないということになるでしょう。」

 実に滑稽な議論ではないだろうか。われわれが「帝国主義」という言葉を使うのは、使われる相手に「痛み」を感じさせるためだったのか? そのような情緒的な反応を起こさせるための「悪口」として「帝国主義」という言葉は用いられるのか? もちろんそうではない。「帝国主義」とは、独占資本主義諸国の政治的・経済的運動法則を客観的に明らかにした上でそれを主体的に克服し打倒するための戦略的用語として用いられてきたし、用いられているのである。
 さらに、「アメリカの対外政策が、文字どおり『帝国主義』の体系的な政策を表していることを解明し、そういう内容を持って『アメリカ帝国主義』という規定をおこな」うという限定の仕方は正しいだろうか? たしかに今では、マルクス主義者のみならず、ブルジョア自由主義者でさえも、イラク戦争に見られるようなアメリカ政府の今日の行動を「帝国」や「帝国主義」という言葉を用いて論じている。だが、ブルジョア自由主義者にとってさえその帝国主義性が明らかになっている場合のみ、われわれが「帝国主義」という言葉を用いるのだとしたら、マルクス主義者、ないし共産主義者の先進的組織(「前衛」という言葉はあえて使わないでおこう)としての共産党の先進性、先駆性、科学性はいったいどこにあるというのか? そのような「後出しジャンケン」は、帝国主義を絶対的に正当化しようとする一握りの右派を除いて、誰にでもできることである。いったい何のために「科学的社会主義」なるものを党の理論として信奉しているのか?
 不破の言い分は、この点でもまったく荒唐無稽で反動的である。不破指導部は、アメリカ帝国主義が誰の目から見てもはっきりとした帝国主義政策をとらなくなったときには、ブルジョア自由主義者といっしょになって、「アメリカは帝国主義国でなくなった、アメリカ万歳!」とでも叫ぶつもりなのか? アメリカ帝国主義の「各個撃破政策」を先駆的に分析して見せたかつての共産党の面影は、今やどこにもない。共産党の堕落と変質はここでもはっきりとしている。

 また、そもそも、その国の行動に「侵略性が体系的に現われた場合のみ」帝国主義と呼ぶとする不破の帝国主義論は、実際には、帝国主義の諸相を軍事面に限定し、そこに還元する誤った議論である。もちろん、軍事力の裏づけとその行使能力は、帝国主義的政策の最も重要な要素であり、その物質的保障であり、軍事なしに帝国主義はありえない。しかし、帝国主義が帝国主義であるのは、いつでもどこでも軍事力を行使するからではない。たとえば、自国の独占資本の利益のために、他国の軍事独裁政権に経済援助を与え、政治的に同盟を組むとすれば、そして、その独裁政権がその見返りに、その国で活動する多国籍資本に便宜を図ってやるとすれば、それは帝国主義的行動ではないのか? まさにそれはまぎれもない帝国主義的行動パターンである。帝国主義は、もし軍事力を行使することなしに自国独占資本の利益を貫徹できるならば、喜んでそちらの方を選ぶだろう。
 たとえばアメリカ政府は、1980年代にはイラン革命に対する敵意から、イラクのフセイン政権に急接近し、惜しみなく経済的・軍事的援助を与えた。フセイン政権が国内で民主主義・・共産主義勢力を弾圧し、シーア派を抑圧し、クルド民族の自決権を否定して容赦ない弾圧をしていても、また国際的にもイランへの不当な攻撃をおこない、その国境を侵犯して軍事的侵略行為を行なっていても、アメリカ政府は、いささかも国際正義と民主主義の熱情に突き動かされることはなかった。アメリカ政府は、イラクの独裁政権がアメリカの利益に一致しているかぎり、それを大いに支えたのである。ところが、イラクの軍事力が著しく増大し、しだいにアメリカから自立しはじめ、ついには、アメリカの中東政策に対する脅威になったときにはじめて、アメリカ政府は民主主義を掲げてイラクの独裁政権に異を唱え始め、経済制裁を行ない、ついには、軍事力で政権転覆させるにいたったのである。
 イラクの政権を軍事力で転覆した場合だけ帝国主義で、それ以前の経済的・軍事的援助の時代や経済制裁の時代には帝国主義ではなかったなどと言えるだろうか? また、その中間における経済制裁は帝国主義的なと言えるだろうか? いやいずれの行動パターンも十分に帝国主義的である。それは、帝国主義国が自国の多国籍資本の利益と帝国主義的国益を実現するための二つの異なった様式にすぎない。「侵略性が体系的に現われた場合のみ」帝国主義と呼ぶという不破の基準は、もう一つの行動パターンを正当化する、あるいは徹底的に軽視することに結びつくきわめて危険で反動的なものである

 ※注 このような帝国主義論がどのような反動的な結論に至るかをはっきりと示しているのは、『賃金と社会保障』2004年1月合併号に掲載された小谷崇氏の論文「今、帝国主義の時代なのか――新版・帝国主義論」である。このでたらめな論文については、次号の『さざ波通信』で詳しく検討する予定であるが、ここで簡単に指摘しておこう。
 この論文は本質的に不破の理論とまったく同じ理論的前提・論理的方法に依拠しており、帝国主義行動は事実上、軍事的行動に矮小化し、帝国主義支配を事実上、植民地的な支配に還元しており、それにもとづいてレーニンの帝国主義論をまったく時代遅れなものとして否定している。そして、ある国が別の国に対して植民地的な直接的・軍事的統治支配を実現しないかぎり帝国主義ではないのだから、したがって今はもう帝国主義の時代ではない、という議論を展開している。
 また小谷は、戦争と帝国主義をめぐる第一次世界大戦後の社会主義の分裂について、レーニンとカウツキーは「どっちもどっち」であり、長期的にはむしろカウツキーの方が正しく、したがってもはや共産主義と社会民主主義とが分裂する理由はなく(最初からあまりなかった)、両者はできるだけ速やかに合体すべきと提案している(111頁)。
 小谷は、不破の綱領改定案報告における帝国主義認識(「帝国主義的行動をとっている場合だけ帝国主義と呼ぶ」論)をわざわざ紹介して、「この提案は合理的である」と手放しで褒める一方で(106~107頁)、帝国主義認識の今日性をなお主張しているさまざまな論者(上田耕一郎、渡辺治、後藤道夫など)を厳しく批判している。
 最終結論として小谷は、「グローバリゼーションとIT革命によって地球がますます狭くなり、次第に、19世紀以来のすべての社会主義者やヒューマニストの夢であった『国境の廃止』や『一つの人類共和世界』が形成される方向へ、世界全体が進んでいこう」(117頁)などというまったくお気楽で能天気な「展望」を開陳している。まさにそのグローバリゼーションが世界の貧富の差を著しく強化し、帝国主義的支配の強化と再編をもたらしているというのに! 
 不破の帝国主義論にもとづくなら、このような結論に至ることはある意味で必然的であり、小谷は不破がまだ言えないことを赤裸々に代弁してやったと言えるだろう。そして、このような反動的論文が共産党系の雑誌である『賃金と社会保障』に堂々と掲載されているという事実は、共産党の右傾化と変質をさらにいっそうはっきりと物語るものである。

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