第23回党大会関連トピックス(再録)

 以下の一連の記事は、第23回党大会に関するトピックスでの論評を再録したものです。

新綱領はごくわずかな字句上の修正のみで採択(04.1.18トピックス)

 1月18日付『しんぶん赤旗』に、採択された新綱領が掲載されているが、それを見ると本質的な点での変更はほとんど皆無で、ごくわずかな字句上・文章上の修正が数十箇所あるだけであることがわかった。43年ぶりの抜本的改定であるにもかかわらず、大会の討論においても、反対意見どころか、修正意見さえ一つも出されず、ひたすら気持ちの悪い礼賛意見だけが延々と発表されたのだから、不破指導部としても修正に心煩わされることはなかったわけである。外国の来賓たちは、自国の党の大会の様相とまったく異なるこの異様な風景にさぞかし驚いたことだろう。
 それでも、いくつか言及に値する重要な修正も存在する。
 まず第1に、第2章の戦後の社会変化について論じた箇所で、「アメリカへの事実上の従属国の立場に落ち込んだ」という部分が「アメリカへの事実上の従属国の立場になった」という表記に変えられたことである。この部分の「落ち込んだ」論は、われわれが綱領改定案が出される以前から不破の独特の認識として厳しく批判してきたものであり(参照、「民族主義的自画自賛に終始した共産党史論――党創立80周年の不破演説批判」)、今回の綱領改定案を批判した論文でも、われわれはこの問題を指摘しておいた(参照、「綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(上)」の第5章)。不破の「落ち込み」論をあえて擁護した投稿者もいたが、不破自ら、自己の独特の誤った認識を――もちろん反省抜きに――取り下げざるをえなかったわけである。
 第2に、第4章の民主連合政府の改革を列挙した部分に新たに教育問題の項目がおこされた。不破は大会報告の中で、さまざまな行動綱領的な政策要求を入れる求める意見が多かったがそれは綱領の性格に対する誤解にもとづくものだと突っぱねていたはずである。ところが、教育関係の活動家が多いからなのかどうかわからないが、教育問題についてだけは新たに項目をおこされて比較的詳しく政策が列挙されるようになった。だが、不安定雇用労働者や外国人労働者、低賃金労働者などの固有の要求は無視されたままである。
 第3に、第4章の天皇問題のところでは、「一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという現制度」という部分が、「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度」という表現に変更されている。現憲法上、象徴の地位にあるのは天皇一人であり、その家族は象徴たりえないという、まったく基本的な法的常識さえ綱領改定案起草者は知らず、そのことを南沢大輔氏やわれわれによって厳しく指摘されて、ようやく撤回したわけである。赤旗学習党活動版臨時号の討論報では、あえて「一つの家族」=象徴論を擁護した「忠実な党員」もいたが、その党員の奉公は無に帰したわけである。
 また、われわれは、綱領改定案批判論文の中で、天皇制の本質的な問題点の一つが、それが「世襲制」であるという点にあり、それは同時に君主制との最も重要な共通点でもあることを指摘したが(参照、「綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(中)」の第32章)、この点の道理も不破指導部は受け入れざるをえなかった。
 だが、この事実を受け入れることは同時に、天皇制がいかなる意味でもブルジョア君主制の一種ではないとする不破の強弁もまた崩れることを意味する。いったいどこの世界に、一個人が世襲で国民全体の象徴となるような制度が「君主制」以外に存在するというのか? 君主が国政に対する権能を事実上持たないことは、基本的に先進国におけるすべての立憲君主制(ブルジョア君主制)に共通する特徴である。日本国憲法の特殊性は、それを単に事実の水準にとどめるだけでなく、条項の一文として明記したことにあるが、しかしこれは問題の本質を何ら変えるものではない。イギリスにおいても北欧諸国においても、国政の支配権はブルジョアジーとその代理人が握っている。不破指導部が天皇制をブルジョア君主制の一種としてさえ言わなくなった最大の理由は、その廃止を民主主義革命上避けて通れない課題とすることを放棄するためである。なぜなら、日隈威徳が言うように「われわれは将来、人民共和国をつくるわけですから、そのときに君主制、天皇制などが残っていたらおかしな話になるわけです。君主を戴いた共和国なんてありえ」ないからである。
 ちなみに、日本共産党が天皇制批判を盛んに行なっていた1980年代後半に最も精力的に天皇制批判論文を書いていた和泉重行は、今回の党大会で常任幹部会委員に抜擢されている。以前は幹部会委員でさえなかったのだから大出世であるといえる。もちろん、和泉はかつての自分の論文を完全に忘れることと引きかえに出世したのである。共産党幹部に政治的良心や人間的誠実さを求めるのは、自民党議員に政治倫理を求めるのと同じぐらい愚かなことなのである。
 第4に、討論報でも批判が集中した「少子化傾向」をめぐる部分が部分的に手直しされた。綱領改定案では「少子化傾向を克服する立場から、子どもの健康と福祉、子育ての援助のための社会施設と措置の確立を重視する」となっていたのが、強調部分が削除された上で、別の文章として次のように独立した。「日本社会として、少子化傾向の克服に力をそそぐ」。これは本質的な欠陥を是正するものではない。たしかに、「子どもの健康と福祉、子育ての援助のための社会施設と措置の確立」がそれ自体としてもつ重要性と価値のゆえではなく、あくまでも「少子化傾向を克服するため」になされるという、まったく驚くべき文脈は変更されたが、あくまでも「少子化傾向の克服」に取り組むという立場は変わっていない。国がその施策の一環として、子供を生みやすい環境を整備するのは当然であるが、それはあくまでも、子供を生む女性と生まれてくる子供の権利と福祉のためであり、あるいは、その子供を取り巻く家族やコミュニティの権利と生活のためである。
 しかも、新綱領にある「日本社会として」という表現の意味もまったく不明である。「日本社会が少子化対策に取り組む」という意味なのか(そうだとしたら民主連合政府の行なう政策を列挙する部分でこのような文言があるのは理解できない)、「日本社会全体として少子化傾向が克服されるように努力する」という意味なのか、日本語としてもまったく理解しがたい。
 第5に、同じ第4章の環境問題のところにも部分的な修正が見られる。綱領改定案では「すべての国ぐにとの平等・互恵の経済関係を促進し、南北問題や地球環境問題など、世界的規模の経済問題の解決への積極的な貢献をはかる」となっていたのが、採択された新綱領では「経済」という文言が取り除かれている。われわれは、綱領改定案を批判した論文においてこの部分を取り上げ、地球環境問題も南北問題も単なる経済問題ではないと指摘しておいた(参照、「綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(中)」の第31章)。不破指導部もこのような批判を受け入れざるをえなかったようである。
 以上の修正はかろうじて「改善」と呼べるものである。しかし他方で、綱領改定案にあった「闘争」という言葉をあえて削除して「運動」という表現に置き換えるなど、改悪も存在する。まさにこれは、戦闘的な大衆闘争を回避し、議会主義的選挙運動をすべての活動の中心軸に置こうとする現指導部の傾向を示すとともに、討論報などでも多数見られた「国民に理解しにくい怖い(?)言葉は避けよう」とする右派の意見に迎合したものでもあろう。
 以上みたように、意味のある修正は本当にごくわずかであり、不破綱領の改良主義的・社会帝国主義的本質にいささかの変更もない。まともな修正意見一つ言えず、ひたすら指導部賛美と活動報告に終始した代議員たちは、主観的には党指導部のもとに固く団結し、党のために滅私奉公しているつもりなのだろうが、客観的には共産党の没落を早めただけである。その光景は、戦前、誤った愛国心によって日本の侵略行為をことごとく是認し、侵略戦争推進の一翼を担った忠君愛国の日本臣民たちの姿と大きくオーバーラップする。日本臣民の大多数は、日本帝国が完全に崩壊し、国土が焼け野原になるまでけっして目が覚めなかった。日本共産党の忠「不破」愛「党」の多数派党員たちも共産党が崩壊するまで目が覚めないことだろう。(S・T編集部員)

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