インタビュアー 以上のような改革の集大成として日本国憲法が制定されるわけですね。
H・T そうです。この日本国憲法には、基本的には、すでに述べた戦後改革の諸特徴が反映されています。すなわち、それは近代民主主義の完成としての国民主権、市民的諸権利、諸自由や諸制度を保障するとともに、民主主義の現代的形態である、男女同権や労働者の権利や社会保障の増進の義務化や平和主義といった諸要素がとりいれられました。
しかし、日本国憲法には、以上の要素に還元できない二つの特殊な性質が見られます。それは、天皇制を象徴として残したことと、憲法9条が入ったことです。
インタビュアー お言葉ですが、天皇制の存続は、戦後改革の特殊性ということで先ほど言われた「人的担い手の面での連続性」の最も顕著な現われとして説明できるし、憲法9条は、「民主主義の現代的水準の導入」の一つである「平和主義」の具体化として説明できるのではないですか?
H・T もちろん、全体としてはおっしゃる通りです。したがって、日本国憲法の内容が、基本的に戦後改革の性格によって規定されていることはその通りです。しかしながら、その規定の仕方を具体的に見ると、天皇条項と9条に関しては、それに還元できない特殊性を有しているのです。
インタビュアー と言いますと。
H・T まず憲法9条についてですが、明治維新の頃の資本主義世界は、基本的に、武力で他の国を植民地化することが当然とされていた水準にありました。しかし、度重なる悲惨な戦争と人民の世界的闘争の結果として、しだいに戦争の不法化、植民地主義の否定という平和主義的規範が有力になってきます。それが、パリの不戦条約に始まり、国連憲章に至るまで、さまざまな形で成文化されてきました。したがって、侵略戦争を否定する、古典的植民地主義を否定する、ファシズムを断罪する、といった意味での平和主義は、戦後つくられた憲法の多くに取り入れられています。ドイツの基本法は侵略戦争を否定しているし、イタリアの共和国憲法も、国際紛争の武力による解決を禁止しています。
しかしながら、すでに、以前のインタビューで詳しく述べたように(「憲法9条と日本共産党」参照)、日本国憲法の9条は、そのような水準を越えて、戦争そのものを放棄し、したがってあらゆる軍隊と交戦権を否定しているのです。これは、平和主義一般に還元できない高度な質であり、日本国憲法の根本的な特殊性を構成しています。
インタビュアー もう1つの特殊性である天皇についてはどうですか。
H・T これもきわめて特殊です。それは、「人的担い手の面での戦前との連続性」を示す最も顕著な例に違いありませんが、それにとどまらない特殊性を有しています。
まず第1に、イタリアにおいても、ドイツにおいても、戦争の最高責任者は自殺するか処刑されて、戦後において公的な地位を得ることは絶対になかったのに、日本では、公的な最高責任者は天皇であったにもかかわらず、処罰されるどころか、退位すらせずに、象徴天皇としての地位を確保しました。つまり、単に人的担い手が連続しているだけでなく、崇め奉られるような高い地位(実効的権力は完全に喪失しましたが)を維持したのです。これは、実際驚くべきことです。
第2に、その存続の仕方の特異さです。象徴天皇制というのは、およそどの世界にも存在しないものです。少なくとも、それは、近代立憲君主制の一形態ではありません。立憲君主制においては、君主は君臨すれど統治せず、ですが、日本の天皇は君臨することさえ憲法では認められていないのです。それは、国民によって選ばれた内閣の言われるままに国会を召集したり、国会で承認された法律や条約を形式的に公布したり、といった国事行為をするだけです。
第3に、その公的な地位からすれば、日本の天皇は、イギリスの女王よりもはるかに形式的であるにもかかわらず、その実質的な権威は、一種のタブーとして、きわめて強力です。イギリスでは王室批判はごく日常的であり、一種の芸能ネタでさえありますが、日本においては、資本に対する国家の相対的自立性は弱いにもかかわらず、この天皇だけは例外であり、今なお、一般マスコミなどで公然と天皇を批判することは危険な行為であると考えられています。すなわち、日本の天皇は、その憲法的位置づけをはるかに越えた「権力」(ないし「権威」)を有しており、それがさまざまな形で日本の民主主義を制約し、また反動勢力に利用されています。
インタビュアー では、この2つの特殊性は、日本国憲法の体系にとって異質だということでしょうか?
H・T 抽象的・形式的に言えば、この2つの特殊性を持たない戦後憲法を作ることは可能だったし、それによって十分、ブルジョア民主主義国家として日本は戦後の資本主義的発展を進めることができたでしょう。ちょうど、ドイツやイタリアがそうであったように。しかしながら、そのような抽象的可能性を離れて、現実に存在する日本国憲法を詳細に検討するなら、日本国憲法においてこの2つの特殊性の持つ比重がまったく異なるものであることがわかります。
インタビュアー それはどういうことでしょうか。
H・T たとえば、日本国憲法の第1章(天皇)をまるまる削除して、第2章から本文が始まるようにしても、全体の体系に手をつける必要はいっさいありません。ただ単に形式的に法律を公布したり条約を発布する主体は、何も天皇である必要はなく、そのような存在がいなくなったとしても、憲法の体系において何ら支障は生じません。皇室財産も皇室典範も無駄なだけであり、なくなったとして、社会生活や法体系に何の齟齬ももたらさないでしょう。
しかし、憲法9条は違います。それは、日本国憲法の体系全体と不可分に結びついています。このことは意外と、右翼も左翼も気づいていない点です。ある市民派の政治学者が平和主義と民主主義とは本来関係ない、憲法9条と市民的自由とは無関係などという発言をしているのを本で読んだことがありますが、これは典型的な勘違いです。戦争を完全に放棄し、軍隊保持を否定したことで、憲法を頂点とする日本の法体系は、戦時ないし有事の例外規定というものをまったく持たないのです。日本国憲法はさまざまな市民的自由や権利というものを、「公共の福祉」という制約規定を除いては、いかなる例外もなく無条件に認めています。このようなことが可能なのは、戦時ないし有事の例外というものを、この憲法がまったく想定していないからです。
基本的にブルジョア的法体系は、平時の体系と戦時の体系という二重基準(ダブルスタンダード)を保持しており、どんな市民的権利も、有事の際には制限されることをさまざまな形で成文ないし判例として規定しています。いちばん顕著なのは、何でも成文化しないと気のすまないドイツの基本法ですが、それは、有事の際の無数の例外規定によって、憲法が2倍以上にふくれ上がっています。イタリア憲法も、ドイツ基本法ほどではないですが、やはり戦時の例外というものを憲法で規定しています。ところが、9条を持つ日本国憲法は、そのような例外規定を持っておらず、したがって、市民的自由や基本的人権のうえでも最も民主主義的な質を保持することができたのです。
インタビュアー そういえば、最近、盗聴法案をめぐって、日本国憲法の先進性が改めてクローズアップされていますね。
H・T そうです。日本の憲法は無条件に通信の秘密と検閲の禁止を、憲法の条文としてはっきり認めています。これは世界的に見てもきわめて珍しいのですが、なぜ珍しいかというと、日本の憲法が有事や戦時をまったく想定していないからです。戦争を想定した憲法なら、実際に戦争になったときはもちろんのこと、それ以前でも、敵国のスパイを探るために盗聴が認められるであろうし、戦争ともなれば、当然、戦時検閲が導入されます。したがって、日本国憲法のように、あそこまで無条件に通信の秘密と検閲の禁止を高らかに宣言することはなかなかできないのです。
インタビュアー しかし、安保条約や自衛隊法を筆頭とする戦争の法体系も別個に存在し、最近の新ガイドライン法の成立によって、ますます戦争の法体系も完成しつつありますね。
H・T たしかにそうです。憲法学者たちは、これを憲法の法体系に対して安保の法体系と呼んでいます。しかし、これはまだ完成されたものではありません。実際に戦争するには、道路交通法や消防法を手始めに、ほとんどすべての国内法に、戦時のさいの例外規定を設けざるをえず、そのためには体系的な有事立法を制定する必要があります。このハードルはなお高く、それゆえ支配層は、そのような国内法にわずらわされない周辺事態を想定した戦争法、すなわち新ガイドライン法を先に通したのです。