タケル同志は、今回の不破政権論が出した「安保の凍結」論について、私たちの勘違いだとおっしゃっています。どういう意味で勘違いなのかについて具体的に述べられていないので、反論のしようもありませんが、ここで改めてこの問題について考えてみたいと思います。
『さざ波通信』第1号のインタビューでは、今回の不破政権論とこれまでの暫定連合政権構想との関係について、連続している面と連続していない面の両方があると述べられています。まず連続面について次のように指摘しています。
少なくとも、形式的には、過去の政権構想と共通する点がいくつかあります。すなわち、どちらも、民主連合政府よりも低い水準の政策を実現することを使命としており、そして、長期政権ではなく暫定政権であり、かつ共産党が少数の連合政権だという点です。
続けて、転換の側面について3点にわたって指摘しています。1つが安保問題についての転換、2つめが政策の具体性の問題、3つめが指導部の姿勢です。安保問題については、インタビュアーとの間で、次のようなやり取りが展開されています。
H・T いくつか大きな違いがありますが、重要なものから挙げると、第一の違いは、今回の暫定政権構想が、「安保の凍結」という立場をはじめて打ち出したことです。
インタビュアー これまでの暫定政権でも、安保に関する意見の相違はお互いに留保して、ということは言われていましたよね。それとは違うということですか。
H・T そうです。これまでいくつかあった暫定政権構想においては、それぞれ政権を作る政党が、安保問題に関するお互いの意見の相違を留保するということになっていました。しかし、これはあくまでもお互いが留保するのです。しかしながら、今回の暫定政権構想においては、安保の現状凍結が言われているのですから、お互いが留保したのではなく、共産党の安保廃棄政策だけが棚上げされたのです。
この問題は、続くやり取りの中で述べられているように、非常に複雑で、党員の頭を混乱させてきました。この混乱に乗じて、不破指導部は、自分たちの立場がこれまでと変わらないものだということをうまく印象づけることに成功してきました。それゆえ、改めて問題の解き明かしをする必要があります。
従来の暫定連合政権構想で言われてきたのは、「安保問題に関するお互いの意見を保留する」ということです。しかし、安保問題というすぐれて実践的な問題で「意見を保留」するというのは実は、よく考えてみれば奇妙なことです。政権につかない単なる運動的統一戦線なら、意見の保留は非常にわかりやすいことです。たとえば、問題となっているのが盗聴法に反対する運動だとすれば、盗聴法に反対するすべての政党や個人が、お互いの安保問題に関する意見の相違と無関係に共闘することができます。この共闘の当事者は別に安保条約の実際の運用を担当しているわけではないので、そのような保留はまったく可能です。しかし、いっしょに政権に入るということは、実際に安保条約の当事者になるということです。政府当事者としては、安保をそのまま維持するか、改良ないし改悪するか、廃棄に向けた手続きをとるか、という実践的態度の決定が求められます。したがって、いっしょに政権に入るかぎりにおいて、「意見の保留」だけではすまず、実際に実践的な態度を決定しなければならなくなります。
にもかかわらず、従来の暫定連合政権構想では、具体的に安保条約を現状のまま凍結する、すなわち現在の水準で維持・運用するという踏みこんだ見解は出されていませんでした。なぜでしょうか? その理由ははっきりしています。これまでの暫定連合政権構想は、インタビューの中ですでに述べられているように、本当に政権に入ることを目的としたものではなく、単に他の政党の政治的姿勢を国民の前で暴露することが目的の戦術的なものだったからです。だからこそ、本当に政権に入れば安保条約をどう運用するのかについて具体的に語る必要がなかったのです。
しかし、今回は、本当に政権に入るという思惑が指導部にあったため、「安保問題に関する意見の保留」という水準を越えた踏みこんだ言い方をしたわけです。また、具体的にどのような政策で連合政権をつくるのかについて語られなかったことも、このことと深く関連しています。最初から政策を提示してしまうと、連合政権ができない可能性があるからです。
タケル同志は、総選挙にまだ入っていなかったので、具体的な政策を言わなかっただけだ、と述べていますが、しかし、これは説得力に欠ける意見です。なぜなら、具体的な政策については何も言われていないのに、安保問題については従来よりも踏みこんだ具体的なことが言われているからです。どんな政策を実現する政権かはわからないが、少なくとも安保条約が今のまま維持され、法律の範囲内で運用されることは間違いない、というわけです。
このような差はどうして生じたのでしょうか? タケル同志は、投稿の中で、民主党などの政党の本質は変わりうる、固定的に考えてはならないとおっしゃています。もしそれが本当なら、なぜ安保堅持という「本質」は最初から変わらないとみなされているのでしょうか? どうやら、民主党の「本質」には、最初から変わらないとみなされている不変的なものと、変わりうるとみなされている可変的なものがあるようです。しかし、そのような恣意的な区分が可能である理由については何も言われていません。
不破政権論がまったくアンバランスな性格を持っているのは、明らかではないでしょうか。一方では、安保堅持の姿勢はどうせ変わらないであろうからという理由で、共産党は安保の現状凍結と既存の法律内での運用という譲歩を、頼まれもしないのにさっさと行ない、他方で、新自由主義的立場や日本の帝国主義化の推進という基本姿勢については、何らかの理由で容易に変わりうるものとみなされているのです。
私たちは、安保堅持の姿勢も、新自由主義や日本の帝国主義化の推進という姿勢も、ともに民主党と自由党の階級的本質に属することであり、それは基本的に変わりうるものではないとみなし、そのような党との連合政府に反対の立場を示しました。もちろん、大規模な大衆運動が巻き起こり、70年代初頭のときのように、世論が急速に左傾化し、世論調査においても年々、自衛隊解散と安保廃棄を支持する意見が右上がりに増えるような状況においては、民主党といえども、少なくとも建前上の政策を変えざるをえなくなるでしょう(当時は民社党ですら安保即時廃棄を主張しました)。しかし、現在の情勢はそのような水準からほど遠いものです。大衆運動は切り崩され、世論の右傾化は急速に進んでいます。ガイドライン法のような、ほんの10年前なら絶対に立法化不可能であったような戦争法が、大きな抵抗もなく通過していしまいました。こうした状況のもとで、共産党があれこれの政治的・議会的マヌーバーや働きかけによって民主党の本質を変えることができると考えるのは、あまりにもナイーブな意見ではないでしょうか。
不破政権論における安保問題の取り扱いについては、他にも多くの論点がありますが、それについては、『さざ波通信』第1号のインタビューを参考にしてください。