この間の投稿の中でタケル同志は、次のように述べておられます。
入閣と閣外協力の違いって何でしょうか。共闘と暫定連合政権の違いって何でしょうか。その辺りが良く解りません。私は、与党になるのは価値あることだと思っています。予算委員会で何度も何度も質問したり、様々な請願署名を繰り返してやっと実現できることが、与党になれば比較的容易く実現できます。もちろん行政と立法の分権を十分わきまえる必要はありますが、政策を実現しやすくなることは事実です。今の与党の体たらくを見るに付け、私はぜひ共産党に政権に加わって欲しいと思います。
こうした発言の底流に流れているのは何でしょうか。それは、地道に請願署名をやったり、予算委員会で何度も質問したりといった、これまでの運動に対する幻滅あるいは熱意の低下、でないでしょうか。与党になれば、もっと容易に要求を実現できるのに、どうして原則にこだわって野党のままでいるのか、こういう感情があるのではないでしょうか。
93年政変の直前、党内の右派とも言うべき人々の間でこうした感情が強く出され、それは一部の党員知識人を通じて堂々と表明されました。地道な運動にはもう飽き飽きだ、小沢一郎の戦略にあえて乗って政権をとろう、連合政権に入ろう、まずは政権交代だ、中長期的課題の実現はその後でいいじゃないか、こうしたことが言われました。その党員知識人は、『赤旗評論特集版』でこっぴどく批判され、その後、党を除籍されました。しかし今では、党指導部自身がこの元党員知識人ときわめて近い立場に立っています。
このような転換が生じた理由は何でしょうか? その一つの理由は、長い長い反動期の中で、地道な闘いにもかかわらずしだいに革新の陣地が切り崩されてきたこと、そしてそうした中で95年以降に突如として選挙での共産党の躍進が始まり、それまでの冬の時代が長かった分、それだけ強く政権への幻想がかきたてられたこと、です。もう野党生活は御免だ、陣地を防衛するだけの実りのない闘いはうんざりだ、こういう意識が強まったのです。
国旗・国歌問題に関して不破委員長が昨年の都道府県委員長会議で語った次のような発言は、こうした心理を垣間見せています。
もう一つの意見は、私たちの提唱を読んだうえでの批判です。「寝た子を起こすな」式の意見といったらよいでしょうか、いくら国民的討論をするといっても、いまの力関係では、政府の思うように、「日の丸・君が代」の法制化がすぐ決まってしまう、法的根拠がない今でも現場はがんじがらめになっているのに、法制化されたら事態はいっそうひどくなるじゃないか、だから、法制化などという問題をそもそももちだすべきではない――だいたいこういう意見です。
この意見は、結局は、国民的な解決策などしめさずに、いまの抵抗闘争を現状のままつづけてゆけばいい、という議論になってしまいます。実は、それが政府の付け目で、政府・自民党が、国民的な議論ぬきにじりじりと押し切ってしまおうとしてきたことは、先ほど、詳しく説明しました。それを打開するために、われわれは、問題を国民的討論のレールに移そうと呼びかけているわけですし、国民的討論も、政府に要求するだけのあなたまかせの話ではなく、あとで具体的に提案するように、私たち自身が、私たち自身の努力で国民的討論を全国規模でまきおこしてゆくわけです。
私たちはこの発言を『さざ波通信』第2号の緊急インタビューの中で厳しく批判しましたが、この発言は一見したところ能動的であるような体裁をもっていますが、実際には、「いまの抵抗闘争を現状のままつづけて」ゆくことに対する深い絶望と幻滅が示されています。地道な抵抗闘争はもううんざりだ、法制化で決着をつけて楽になろう、これが指導部の偽らざる本音だったのではないでしょうか。
もう一つの理由は、長い「革新冬の時代」の間に、日本の経済大国化が急速に進み、一般国民のみならず党員や幹部自身も含めて、帝国主義的な国民意識がかなり普遍化したことです。民主党の本質や綱領的立場やあれこれの政策に見られる、明らかに新自由主義的で帝国主義的な諸要素が、党員自身の目にさえ、それほど反動的でも、拒否すべきものとしても、映らなくなってきたこと、そうした本質や綱領的立場はどうでもよくて、部分的に政策が一致しさえすれば連合政権をつくってもいいのだという、あっけらかんとした意識が芽生えており、それが指導部の方針転換を通じて、はっきりと党員自身によって自覚されたことです。
ですから、不破政権論の根は深く、一部の指導者だけの問題ではけっしてありません。もしそうなら、党全体から強い抵抗と拒否を受けたでしょう。しかし、そのような抵抗はほとんど見られませんでした。不破指導部は、党員の意識下で進行しつつあった傾向を先取りし、それをはっきりと形にしたのです。
これは、かつて社会党の中で見られた現象です。80年代終わりごろから、社会党の右派は、旧来の抵抗闘争的アプローチを拒否し、積極的に政権に関与することで政策を実現していく「新しい道」を選択すべきだと主張しました。こうして彼らは、93年政変のとき社会党を新保守主義的連合政権に参加させて政治的に崩壊させ、自分たちはさっさと泥の船から脱出して、民主党に泳ぎ着きました。
もちろん、当時の社会党と現在の共産党とでは、さまざまな違いはありますが、生じている基本的な傾向は同じであると言えるでしょう。