解体か再生か―岐路に立つ民青同盟

1、民主主義の看板が泣いている

(1)決議案は、既定方針なのか?
 大会報告や結語など、大会の様子を示す諸文書をみて、まず絶望的なためいきを禁じえない記述が散見される。
 第1には、大会議案のとりあつかいについてである。そもそも議案とは、どれほどすばらしいものであったとしても、あくまでもそれは「案」であり、討議に付され採択されてはじめて実効力を持つものである。
 しかしながら、共産党や民青の組織内では「議案を支持し、全面実践の立場から発言します」という枕詞が使われることがあるように、議案の神格化、指導の無謬視、異論の嫌悪といった、討論とは名ばかりの非民主的運営(一種の儀式化である)があたりまえのように行なわれている。しかし、より深刻なことは、このような弊害が、共産党よりもしばしば民青内で「濃縮」されているということである。
 たとえば、議案を既定方針としてもちあげる表現は、共産党よりも民青で多く見られる。

 班や地域で決議案が活発に討議・具体化されたこともそれを証明しています。発表時点といまでは、班や地域のようすがガラッとかわったという実感をもっているみなさんも少なくないのではないでしょうか。決議案の生命力を日々感じながら、この大会をむかえることができたと思います。(「大会報告」)
「同盟員も青年も本当に求めていることが、2ヶ月の実践のなかでしめされました」(「大会報告」)
「この大会期間中もふくめた決議案の全同盟的な討論と実践によって、その確信をつかむことができたのではないでしょうか」(「結語」)

 これでは、全国の代議員は「正しさ」が「証明」済みの議案をただただ確認するためだけに集められたようなものである。すでに実践が開始され、「正しさが示された」という前提から、いったいどのような議論が可能であろうか。
 また大会の討論についても、民青内ではより非民主的な運営がまかりとおっている。共産党は、「学習党活動版」号外を発行し、不十分とはいえ党員が異論を提示する機会があるが、民青はこのような民主主義的な措置をとっていない。これでは、「議案」とは中央の独占物であり、全国の英知を結集して案を練り上げる作業など、期待のしようもない。
 しかし、「結語」では、あたかもここで民主的討論が組織されたかのごとく、欺瞞的な報告をしている。

 「決議案発表後、この大会期間中もふくめ、全国からさまざまな意見がよせられました。その一つひとつについて吟味し、とりいれられるものは大いにとりいれる努力をしました」(「結語」)

「21世紀にふみだしていくにふさわしい方針をねりあげることができたと確信するものです」(「結語」)

 では本当に練り上げられたのだろうか? 念のため「決議案」と「決議」とを比較をしてみると、修正がされているのは前大会よりもさらに減って、10ヶ所のみである。しかも、この10ヶ所は、事務的な数値の訂正や、せいぜい文脈を補足する程度の修正にすぎないという点では、最悪だった前回の27回大会と比較しても、さらに悪化をしている。
 本来、政党組織よりもはるかに開放的で自由でなければならない大衆的青年組織の内部実態が、共産党よりも縮小された組織内民主主義しか保障されておらず、民主主義の発揚も限りなくゼロにちかいという事実は、重く受け止めるべき問題である。

←前のページ もくじ 次のページ→

このページの先頭へ