2つめの破綻は、1998年の参院選以降の不破=志位指導部による基本路線の破綻である。まずその筆頭に挙げるべきは、この基本路線の画期となった98年参院選直後に出された不破政権論であろう。
不破政権論の破綻については、すでにわれわれは再三再四繰り返し指摘してきたところである。『さざ波通信』創刊号のインタビュー「不破政権論――半年目の総括」(上)でもすでに不破政権論の破綻について語られている。しかし、その後も、不破=志位指導部は、繰り返し、野党連合政権論を持ち出し、2000年の総選挙では、それを前面に押し出しさえした。しかし、その結果は、総選挙における大幅後退でしかなかった。不破政権論は押入れの奥にひそかにしまいこまれ、総選挙直前まであれほど振り回していた野党連合政権についてはその後まったく語られなくなった。しかし、今回の参院選で、共産党は2000年総選挙をはるかに凌駕する大敗北を喫した。不破政権論はこれによって最終的に息の根を止められたといっても過言ではない。選挙での躍進に目がくらんで、安保政策を棚上げしてまで実現不可能な野党連合政権論を振り回し、革新世論の幻滅を招いた不破=志位指導部の責任は重い。
この点に関しては、1970年代における民主連合政権構想との違いを明確にしておく必要があるだろう。あのときも、1970年代後半から始まった反動攻勢のもとで、民主連合政権は実現不可能なものとなった。そのとき、民主連合政権構想を打ち出したこと自体を批判しその責任を問う声が、党内外の一部に見られた。われわれはこのような責任論に与するものではいささかもない。なぜなら当時にあっては本物の「革新高揚期」が存在し、情勢の発展しだいでは実際に社共を中心とする民主連合政権樹立の可能性があったからである。その後、社会党自身が大きく右旋回し、80年の社公合意で最終的に共産党との連合政権構想を拒否するに至ったが、その責任は基本的に社会党指導部自身にあるのであって、共産党の側にはない。真に情勢が左傾化し、真に革新的な政権の可能性が少しでも生じたのなら、その可能性を押し広げるために、積極的に具体的な政権構想を立てること自体は、革新政党として当然の行為である。それが実現しなかったからといって、そうした努力の正当性そのものが否定されるわけではない。
しかしながら、1998年に打ち出された不破政権論は、70年代における民主連合政権構想とはまったく性格を異にするものである。それは、方向性を同じくした革新政党との連合政権ではなく、方向性のまったく異なる新自由主義政党との連合政権案であった。それは、安保条約に関する違憲の相違を双方が留保してつくる政権ではなく、共産党の側が一方的に自らの基本政策を棚上げし、安保条約の現状維持を認める政権であった。それは、自民党政治を進歩的な方向に向けて打破する政権ではなく、共産党の右傾化と堕落を促進する政権案であった。それは、方向性の違いや民主党の反共主義からして最初から実現不可能であると言うだけでなく、そもそも進歩的意味をまったく持たない政権構想であった。あらゆる点からして、それは、1970年代の民主連合政権構想とは異なるものであり、不破=志位指導部の右傾化を示す最初の明確なシグナルでしかなかった。
われわれはこのシグナルの意味をただちに理解し、『さざ波通信』というサイトをオープンすることによって、この危険性を公然と指摘する必要があると考えた。われわれの懸念は正しかった。その後の共産党の歩みは、度重なる右へのよろめきと一連の戦術的・戦略的誤りのオンパレードだった。「日の丸・君が代」問題をめぐる混迷、不審船事件をめぐる曖昧さ、財界団体へのすりより、アジアの開発独裁国家の賞賛、消費税をめぐるジグザグ、自衛隊の活用論、党規約の全面改悪、等々、等々。それは、革新世論を裏切るだけでなく、革新層の意識を混乱させるものだった。こうしたことが、大局的には、革新層そのもの掘りくずしをもたらしたのである。今回の惨敗の原因は、小泉人気のみならず、この3年間における不破=志位指導部の右傾化路線そのものにもある。
渡辺治氏が分析しているように、小泉フィーバーの背景には、日本の進路をめぐって旧来型の利権政治か新自由主義的構造改革かという二者択一に収斂してしまったことがある。しかし問題は、この「収斂」に共産党指導部も一定の寄与をしてきたことである。共産党は、自民党を中心とするブロック(利権政治+新自由主義)と民主党および自由党を中心とするブロック(より純粋な新自由主義)という2つの極に対抗する第3の極(護憲と革新の極)を、新社会党、社民党、革新無党派層とともに形成する戦略的路線をとるのではなく、民主党を中心とする第2極にすりより、「与党対野党」という不毛な対立軸を形成してきた。民主党との連合政権の可能性を積極的に示唆し、「野党戦線」の構築をことあるごとに口にし、民主党への批判を控え、現代政治における基本軸である新自由主義と日本の帝国主義化という問題を曖昧にしてきた。これによって、革新世論の中にさえ、現在におけるオルタナティヴが「旧来の自民党型利権政治・官僚政治を続けるのか、それとも、それをぶち壊してより自由主義的な経済体制を構築するのか」であるかのような幻想を培うことになってしまった。小泉政権に対する支持が、共産党支持層にも深く浸透した一つの理由が、この3年間における不破=志位指導部のこうした「すりより路線」にもあることは明らかである。
不破=志位指導部は、この数ヶ月間、小泉改革路線に対する全面的な反対キャンペーンを行なったが、それはこの2年半にわたって培われた混乱を完全に取り除くにはあまりにも不十分だった。何とか共産党支持層のコアの部分は確保しえたが、革新周辺層は結局、獲得するにいたらなかった。この部分の多くは棄権し、一部は自民党に投票するに至ったのである。