「市場派マルクス主義者」の理論的指導者であり、サッチャーと鄧小平を心より尊敬する大西広教授は、共産党のこの間の政策を「小さな政府をめざすもの」であると特徴づけている。これは『さざ波通信』第8号の論文「新自由主義を推進する「マルクス主義」学者大西広氏の「新しい市民革命」論を批判する」の中で詳細に批判したように、まったくのでたらめであるが、それにもかかわらず、このようなデマゴギーを大西が振りまけるのは、この3年間における不破=志位指導部の姿勢にある種のイデオロギー的曖昧さがあったからである。たとえば誰も渡辺治氏や後藤道夫氏のことについて「小さな政府をめざしている」というデマゴギーを言うことはできないだろう。
不破=志位指導部のこうしたイデオロギー的曖昧さの理由は、ここでも彼らの理論的・知的能力が劣っていることにあるのではなく、彼らの「国民主義」的傾向に根ざしている。共産党のこの「国民主義」的傾向については、『さざ波通信』の開設以来、われわれは繰り返し指摘してきた。国民主義的傾向とは、日本国民をあたかも一枚岩の存在であるかのようにみなし、その内部の階層分化に目をつぶり、どの階層にも受け入れられるような政策を追求する姿勢を指している。これは、結果的に、対立軸の曖昧化、基本路線のブレとジグザグを生み出す。
今回、小泉政権が打ち出した姿勢として注目すべきなのは、「国民の痛み」をあえて強調し、その「痛み」を我慢してがんばってこそ明るい明日がくるというキャンペーンを張ったことである。これまでの自民党政治は、一方では福祉・医療切り捨ての新自由主義政策をしながら、そのことについては極力触れることなく、他方では、その「痛み」を和らげる公共事業の麻薬を大量に投与するという政策を実行してきた。それに対して、小泉内閣は、今回の選挙戦において、あえて「痛み」を前面に押し出すという戦術をとった。こうした戦術の目的は、政権の基本姿勢が変わったことを新自由主義派にしっかりアピールするためであるが、それとともに、あらかじめ「痛み」を言っておくことで、その「痛み」を国民に納得させるためでもあった。これは、小泉内閣が、従来の「国民主義的統合政治」を捨てはじめ、階層政治を志向していることを示している。
それに対して不破=志位指導部は、旧来の自民党的「保守的国民主義」との対抗関係で形成された「革新的国民主義」の路線をあいかわらず堅持していた。もちろん、この「国民主義」は、市民主義と違って、公的福祉の領域では新自由主義に対する対抗軸になりうる(この点につき『さざ波通信』第2号のインタビュー「不破政権論――半年目の総括」下を参照)。しかし、それ以外の領域では、しだいにその限界が露わになりつつある。新自由主義ではない方向への大胆な改革においても、それに伴って犠牲が生じる。問われるべきは、そうした改革の「痛み」を主として誰が負うべきなのか、弱者や庶民階層か、それとも社会的・経済的強者や金持ち階層か、であった。共産党の参院政策には、所得税の最高税率の引き上げのような政策も書かれており、それだけをとれば明らかに金持ち階層に「痛み」を引き受けさせることを念頭に置いている。しかしながら、選挙宣伝ではそうした点はまったく押し出されなかった。また、多国籍大企業に対する政策もなかった。ビラで名指しされた「敵」は大銀行とゼネコンだった。だがこのような対象設定は、新自由主義との根本的相違を曖昧にする。石原都政ですら、都市銀行に対する新規課税を行なったし、また新自由主義の主たるターゲットは福祉受給者や公務員と並んで土建業者である。こうした階層的曖昧さは、今後ますます維持できなくなるだろうし、無理に維持しようとすれば政策上のブレをもたらすことになるだろう(この点については、『さざ波通信』第11号の論文「不破政権論について改めて考える」の最後の章を参照)。
また、新自由主義によって被害を受ける階層も一枚岩ではない。それぞれの階層同士で実は深刻な利害対立がある。農民と都市住民、外国人労働者と底辺労働者、低賃金労働者と中小零細企業、民間労働者と公務労働者、等々。「構造改革」路線は、それらの利害対立をあおり、意識的に先鋭化させることで、最大の強者が漁夫の利を得ようとするヘゲモニックな「分割統治」戦略でもあった。それに対しては、労働者階級の側からの対抗的ヘゲモニー戦略が必要になる。すなわち、支配的諸階層の利害対立をあおり、他方で被支配側の個々の諸階層の利害を調節し、それら諸階層の連携ないし統合を可能にするような変革戦略を提示することである。もちろんこれは、「言うはやすし、行いは難し」だが、その方向に進む以外に活路はない。いずれにせよ、「国民主義」的前提を克服しないかぎり、このような方向性に進むことはできない。これは、ひとり共産党のみならず、革新陣営全体の戦略的課題であろう。