もう一つ、不破=志位指導部の基本路線における破綻は、その徹底した漸進主義にも原因がある。今回の小泉フィーバーによる熱狂は、たとえ痛みを伴っても大胆な改革を行なうのだというメッセージが広範に受け入れられたことにある。この「大胆さ」は、もちろん、新自由主義的社会・経済体制に向けた「大胆さ」にあるのだが、それにもかかわらず、新自由主義に親和的な層のみならず、それによって被害をこうむるはずの層にも一定の共感を引き起こすことができたのは、現在の自民党政治の閉塞感があまりにも深刻だったからである。そうした中で、単純明快な言葉で「大胆な改革」を訴える小泉の姿は、国民的共感を呼び起こすものだった。これと対照的だったのが、1998年の参院選以降の不破=志位指導部の改革路線である。不破=志位指導部は、「一歩づつの改革」「段階をおって少しづつ改革する」「一歩でも二歩でも自民党政治を打破できるだなそれでいい」という漸進主義のメッセージを飽きることなく送りつづけた。われわれはすでに、2000年総選挙前に発表した論文「総選挙向けパンフの問題点」の中で、このような「一歩一歩主義」を厳しく批判し、その危険性を訴えている。
まず第1に、極端な漸進主義が強調されていることである。この非常に短いパンフレットの中にある同じフレーズが何度も登場している。それが「一歩一歩」ないし「一歩でも二歩でも」「一段一段」という漸進性を強調的に表現するフレーズである。たとえば、こんな具合である。
「一歩一歩よりよい社会をめざす」
「社会の発展は階段をのぼるように、一段一段、すすむものです」
「それ以前にも、一歩一歩、平和の道を歩みます」
「それ以前にも一歩一歩」
「一歩でも二歩でもよい政府をつくるために野党の共同に力をつくします」
まさに漸進主義の大安売りである。かつての社会民主主義政党ですら、ここまで極端な漸進主義を標榜したことはない。現在では民主党ですら、「大胆な改革」の必要性を訴えているというのに、共産主義を標榜する政党が、一歩でも二歩でもましでさえあればよいという姿勢をとっているのである。……
現在の政治的・社会的矛盾は深刻であり、それはただ大胆な変革によってのみ解決可能である。人民は、そのような大胆な改革を望む場合にのみ政権交代を含めた政治の変革を欲するようになる。単に一歩でも二歩でもましな政府のために、どうして共産党をわざわざ政権に就ける必要があるのか? それなら、支配階級の信任を得ているより堅実な政党に政治を任せる方がはるかに安全・確実だろう。
さらにわれわれは同論文で、あたかもその後の小泉政権の成立とそのフィーバーの到来を予言するかのように、次のような警告を与えている。
さらに深刻な問題は、社会の矛盾がますます深まる中で、実際に大胆な変革を望み始めている層がその政治的救いを右翼ポピュリストに求める危険性が増大していることである。政治と社会の行き詰まりを実感し、政治・経済・社会全般にわたる大規模な変革を志向する部分は、左翼の極端な漸進主義(「一歩一歩」主義!)に幻滅して、その顔を右に向けるかもしれない。東京都知事の石原慎太郎に対する「大衆的」人気は、そうした危険な傾向の萌芽であると言えるかもしれない。
この文章が書かれたのは、2000年の5月12日であり、今回の小泉フィーバーが生じる1年近くも前のことである。不幸なことに、この予測は、われわれ自身の想像をもはるかに越える形で的中した。不破=志位指導部はこうした警告にいっさい耳を貸さず、小泉フィーバー成立の心理的基礎を部分的にであれ作り出すことに貢献してしまったのである。