最後に、志位結語について簡単に触れておきたい。
志位氏は、この結語の中で、「党がたたかいの組織者に」という提起がとくに大きな共感をもって受け入れられたことを次のように述べている。
党自身が、たたかいの主体になる、組織者になる、ここが肝心かなめのところであります。全国からの感想でも、この点がたいへん新鮮にうけとめられ、歓迎されています。たとえばこういう率直な声もよせられました。
「これまで運動は大衆団体まかせで、党は政策的提言をしていればよいという消極的考えがあったが、これではだめだと感じた」
「組合がだめだからなどと、何か人ごとのように考えていたが、党が組織者となって大闘争を組織しなければならない」
こういう率直な自己分析もまじえた声が、たくさんたくさんよせられました。党みずからが、“たたかいの組織者”になろう、たたかいの旗印をたて、広範な共同を組織してゆこう、そういう先進的役割を発揮しようではないかという提起にたいして、熱い決意の声が全国からひたひたとよせられました。
こうした感想が寄せられたことは事実であろうし、それは非常に積極的なことである。それは、党内になお残っている健全な傾向のたしかな現われである。そして、同時に、こうした方針がこれほどまでに強く支持されたことは、逆に言えば、これまでの党指導部の姿勢がまさにこの大衆闘争を軽視するものであったことに、多くの党員が不満を感じていたことを示している。共産党の真の値打ちは、日々の大衆闘争、政治闘争を自ら先頭に立って担うことにある。「前衛」の核心的意味は、単に「先見性」や「不屈性」にのみあるのではないし、ましてや傲慢な「指導性」にあるのでもない。それは何よりも、つねに闘いの最前線に立つということを意味する。共産主義者は最初に戦場に現われ、最後にそこを後にするのである。多くの党員は、大なり小なり、そうした闘争をこそ欲して共産党に入ったのであって、選挙のためや、赤旗拡大のために入ったのではない。もちろん、選挙闘争も組織拡大も重要であるが、それは、党自身が担う大衆闘争、政治闘争と切り結んでこそ本当に成果が上がるのである。
以上のことは、われわれ自身が口を酸っぱくして繰り返してきたことである。たとえば、昨年の総選挙を総括した号外第5号において、われわれは次のように述べている。
共産党は、課題によってはもちろん全野党共闘にも積極的に参加するべきだが、しかし基本的には、「護憲と革新の第3極」を構築することへとその共闘路線の照準を定めるべきである。それは、一方では、新社会党や市民派左派との末端組織や大衆運動レベルでの地道で誠実な共闘を積み重ねること、他方では、社民党を民主党ブロックから引き離し、「護憲と革新のブロック」に引きこむことを意識的に目指さなければならない。とりわけ、今後の国会で焦点となるであろう憲法改悪と有事立法、消費税増税、社会保障改悪(民営化路線を含む)などをめぐって、国会の内外で広範な統一戦線を構築し、その闘争の先頭に立たなければならない。これらの問題において、民主党や自由党は基本的に自自保と同じ立場であり、鋭く共産党の立場と対立している。これらの問題において全野党共闘など問題になりえない。
共産党が、誠実な党内討論と自己批判を伴ってこれまでの連合政権路線をきっぱりと放棄し、これらの切実な諸課題において下からの運動の先頭に立ち、基本原則をめぐる諸問題で革新の立場を再び原則的に擁護するなら、共産党はこれまでの失策と裏切りによる政治的ダメージを回復し、再び有権者の、とりわけ革新系有権者の信頼を取り戻すことができるだろう。これこそが、共産党が生き残り、発展していくことのできる唯一の道である。
また、それより以前の『さざ波通信』第5号の論文「新ガイドライン法の成立と従属帝国主義」の中でも、次のように述べられている。
インタビュアー なるほど。難しい状況ですね。では、いったいどうすればいいんでしょう。
H・T もちろん、てっとり早い処方箋など存在しません。嵐のような新自由主義政策の中で、厳しい過酷な経験を経ることで、敵の共通性という事実を少しづつ諸階層が学び取り、少しづつ連帯の輪を広げていくしかないでしょう。
この点で決定的に重要なのが、独自に政治的なレベルで諸階層の連帯・提携を自覚的に追及する政治組織の役割です。グラムシ流に言うなら、ヘゲモニーです。この場合のヘゲモニーとは、支配権の獲得という狭い意味ではなく、経済的諸利害の分岐と対立を越えて、被支配諸階層の政治的結集と統一を獲得する政治的指導能力のことです。このような政治的指導能力を発揮する使命を帯びているのが、共産党なのです。その本来の任務は、あれこれのブルジョア政党との数合わせによる入閣を夢想することではなく、現在の帝国主義化と新自由主義化のもとで、それとの厳しい闘争の先頭に立ちつつ、諸階層の政治的連帯と提携を地道に追求することです。日本革命の展望は、ただ、この闘いの延長上にしか展望することはできません。
まさにここで言われているように、客観的情勢に対する幻想的楽観論を捨て去り、本格的に困難な状況の中で流れに抗して、各分野での闘争の先頭に立つこと、そしてそれを通して、諸階層の政治的・社会的連帯と提携を追求していくこと、ここにこそ、21世紀における社会変革の展望がある。こうした視点からするなら、民主党との数合わせで政権入りを果たして、上から「日本改革」なるものを人為的に加速させようとした1998~2001年における不破=志位指導部の路線は、ここにおいて最終的にその破綻が確認されたと見ていいだろう。論争の決着はついた。不破=志位指導部は、3年の遅れ(何という重大な遅れか!)をともなって、ようやく、下からの大衆闘争、政治闘争の先頭に党が立ち、長期にわたる粘り強い地道な闘争を通じてしか展望が切り開かれないことを悟ったのである。
しかし、ここでただちに次のことを警告しておかなければならない。まず第一に、この転換は、過去の路線に対する明確な自己批判をまったくともなっていないし、指導部の体質や傾向もまったく変化していない。「たたかいの組織者」のかけ声にもかかわらず、党指導部は、海上保安庁法改悪に賛成し、国連による軍事的制裁にも賛成した。すなわち、政策上の右傾化路線にはまだ何の変化も生じていない。つまり、この転換は、まったく小手先のものでしかない。したがって、党指導部に対する厳しい視線をいささかでも緩和することは許されない。今後とも引き続き、党指導部に対する厳しい監視と批判を継続しなければならない。
第二に、多くの党員は、長年にわたる選挙中心主義、大衆闘争の軽視、国民主義と漸進主義とによって教育されてきており、指導部が、「たたかいの組織者に」というかけ声を発しただけで、たちどころにわが党が闘う政治組織に変わるわけではない。党指導部と中間機関が、これから、よっぽど粘り強く、真剣に、「たたかいの組織者としての党」という姿勢を打ち出しつづけていかないかぎり、そして指導部自身がその範をはっきりと大胆に示さないかぎり、結局、かけ声倒れになるだろう。
第三に、党が本当に「たたかいの組織者」になるためには、上からの抑圧体制、異論排除、全体主義体質といったものが根本的に克服されなければならない。上の顔色ばかりをうかがっているイエスマンの集団が、下からの戦闘的運動を担えるはずなどないからである。このことに着手する勇気が現在の党指導部にあるだろうか。残念ながら、「ない」と言わざるをえない。この点でも、「たたかいの組織者」というスローガンは、スローガンだけで終わる可能性がきわめて大きい。
しかし、それにもかかわらず、すべての異論派党員は、今回の提起を積極的に受け止め、それを党内改革のテコにするべきだろう。どうせ失敗に終わる提起として冷笑的に対処することは、傍観者の立場であって、変革者の立場ではない。各持ち場で、多くの党員を巻き込んで、「たたかいの組織者」として奮闘するべきである。そしてその過程で、官僚的指導部を突き上げ、党が抱えている深刻な病をあぶり出すべきだろう。