この「雑録」は、日本共産党とその周辺をめぐる動きの中で、短くても論評しておくべきものを取り上げて、批判的に検討するコーナーです。
これまですでにわれわれは『週刊金曜日』に対する批判を何度か行なってきた。たとえば、『さざ波通信』第21号の論文「小泉改革の旗振り役となる『週刊金曜日』」 がそうである。われわれはそのなかで、『週刊金曜日』が郵政3事業の民営化を呼号し、小泉の新自由主義政策の旗振り役になっていることを厳しく批判した。『週刊金曜日』は、規制緩和・民営化の新自由主義政策を推進することがあたかも、日本における利権政治を打破することにつながるかのような幻想を振りまき、それによって同誌は、現代資本主義・帝国主義勢力の最も中心的な政策(新自由主義)の走狗と化しているのである。
世界的に見て、ヨーロッパであれアメリカであれアジアであれ、戦闘的な大衆運動を担っている進歩勢力はみな、支配勢力の規制緩和・民営化路線、多国籍企業主導の新自由主義的グローバリズムに対する闘争を中心課題に据えている。ところが、進歩勢力であると自称し、一般にもそうみなされている『週刊金曜日』は、日本における帝国主義的・新自由主義政策を本格的に追求する政権である小泉政権の構造改革路線を支持し、それの徹底を訴えているのである。何という皮肉な光景だろうか。
こうした傾向はこの間ほとんどまったく改善されていない。各方面から小泉構造改革の反動的本質が十分に指摘されているにもかかわらず、『週刊金曜日』の新自由主義的姿勢はあいかわらずである。たとえば、今年の6月14日付『週刊金曜日』(415号)に掲載された山本信一論文「首相・族議員なれ合いの民営化路線」は、小泉改革を右から批判し、朝日・毎日・産経・読売などの大手メディアと同じく、郵政民営化の徹底を主張している。驚くべきことに、この論文は、新自由主義政策のチャンピオンである大手宅配便業者ヤマト運輸の主張を肯定的に紹介して、小泉改革の不徹底さを糾弾しているのである。いったい、こうした姿勢のどこに、大企業から自立した「市民の雑誌」の片鱗があるというのか? 大企業の広告を受け入れてもいないのに、大企業の手先として振舞う雑誌とはいったい何なのか?
『週刊金曜日』の問題はそれだけにとどまらない。今年の4月26日付『週刊金曜日』(409号)の岡本篤尚論文「自由と安全を踏み潰す“戦争国家”へ」は、ドメスティック・バイオレンス(DV)防止法やストーカー規制法までをも有事法制の体系の中に位置づけている。日本の女性運動が必死の取り組みと努力によって不十分ながら勝ち取ったDV防止法ですら、『週刊金曜日』にとっては有事法制の一部にすぎないのである。もしDV防止法が有事法制なら、当然その廃止を要求するべきであるが、その点については『週刊金曜日』は沈黙している。『週刊金曜日』はたしかに、雑誌を挙げて有事法制に反対している。しかし、その有事法制反対の姿勢は本質的に、家庭内で男が女を殴る権利を法的に守ることと同じレベルで「市民の権利と自由」を守ることでしかないのである。
小泉改革の徹底を訴え、現実に進んでいる新自由主義政策を右から批判する『週刊金曜日』。DV防止法を有事法制の体系に組み入れたうえで、有事法制に反対する『週刊金曜日』。これらの事実は、ラディカルな市民派左翼を気取っている『週刊金曜日』が実際には、現代帝国主義と支配的男性の主要な要求を代弁する新自由主義的リベラル派にすぎないことを示している。他の国では支配層の一部を構成するべき勢力が、戦後日本の特殊な歴史的状況のせいで、ラディカル派の一員として振舞うことが可能になっているのである。この戦後日本の特殊な歴史的状況については、前号の『さざ波通信』で詳細に明らかにした。
『週刊金曜日』に対する幻想を捨て去るべきである。あらゆる戦線で新自由主義と対決しなければならない。とりわけ、左翼・進歩派勢力の中に食い込んでいる新自由主義派を暴露し、厳しく批判するべきであろう。とりわけ、『週刊金曜日』にたびたび登場している左翼知識人たちに訴えたい。『週刊金曜日』に無批判に登場し、立派な左翼的主張を書くことによって、『週刊金曜日』の権威を高め、左翼陣営内での新自由主義イデオロギーの蔓延に貢献しているのである。『週刊金曜日』にいっさい書くなというのではない。それと同時に、『週刊金曜日』に対する厳しい批判的姿勢、『週刊金曜日』の果たしている反動的役割についても遠慮なく語るべきである。それをいっさいせずに、ただ書く場所を与えてくれるということで『週刊金曜日』に無批判に登場することは許されない。