2000年5月30日に締結された与党3党と社民党による「4党合意」とは、国労トップと社民党が構想してきたもので、「JRに法的責任なし」と認めたうえで、差別的不採用により14年間にわたる闘争を余儀なくされている1047名の国労組合員の救済・雇用回復を政治決着として図ろうというものである。
しかしながら、そもそも使用者側の法的責任の追及は、どんな争議であれ、解雇撤回や不当労働行為の中止、組合員の救済といった要求を認めさせるための欠くことのできない前提条件である。「法的責任なし」と認めるなら、解雇された組合員の救済や復帰という要求は、使用者の慈悲にすがるほかなくなる。
この2年間の現実は、「4党合意」による政治解決を求めることは、まさしく政府・与党やJRの慈悲にすがるものであるということを、これでもかと言わんばかりにみせつけてきた。しかも、当事者である大多数の国労闘争団の闘う意思をじゅうりんして、国労中執は「4党合意」受諾を決め、国労の運動方針として推進してきたのである。
もちろん、14年間(当時)の闘いを無にさせる「4党合意」受諾の大会決定はすんなりと通ったわけではない。2000年7月1日の第66回臨時大会では、「4党合意」に反発する闘争団および支援グループの必死の抵抗で休会となった。だが、この過程で、社民党右派やチャレンジグループに属する中央執行委員(中執)とともに革同系の中執もまた「4党合意」受け入れ推進派としての役割を果たしていた。その動きに、党中央がお墨付きを与えていたことも間違いのないところであった。
そこでわれわれは、党としては「4党合意」に批判的であるという印象を与えながら、国労内で革同主流派の党員らが「4党合意」受諾を推進することを黙認している党中央の欺瞞に満ちた行為を厳しく批判した(「岐路に立つ国鉄闘争――共産党中央は「4党合意」の拒否を明確にせよ!」)。
党中央は、その後、ようやくにして、『しんぶん赤旗』にN・S論文(2000年8月19・20日付)を発表する。そこでは、「JRに法的責任なし」の承認をおしつけることは「問題の解決を一層、困難にさせる」ことを認めざるをえなかった。だが、その後の過程は、それがまったく実践を伴なわないアドバルーンにすぎないことを明らかにした。結局、「4党合意」に対する批判的立場は、「政党としての意見」として脇におかれたのである。
それでもなお、闘争団・反対派の粘り強い抵抗で、続開大会(8月)と、一票投票の実施(9月、賛成55.1%、反対36.0%、保留4.8%)を挟んで第67回定期大会(10月)でも「4党合意」受諾が決められなかった。これらの大会で、革同主流派も4党合意反対の闘争団を実力で排除することに参加している。
しかし「4党合意」受諾を解決の前提にするILOの不当な勧告が11月に公表されるや、今度はそれを錦の御旗にして、共産党系の地方組織も中心になって、いっそう強力に「4党合意」の受け入れ路線が推進されるようになった。そしてついに、翌2001年1月に猛吹雪の中で開催された歴史的な続開大会では、革同主流派も加担して大量の機動隊が導入され、「4党合意」受諾決定が暴力的に強行されたのである。驚くべきことに、2月2日付の『しんぶん赤旗』はN署名の大会解説記事で、「『JRに法的責任なし』とする『4党合意』受け入れを前提にしながらも、『当事者が満足のゆく解決』や『公正な補償』を日本政府にもとめているILO勧告に沿って、早期解決をはかるよう申し入れる、東京高裁の採用差別不当判決は最高裁で判断を公正に行わせる」と決定したことをもって「団結の方向を示した」とまで評価したのである。
国労の歴史に汚点を残したこの大会で社民党とわが共産党が果たした役割について、われわれは『さざ波通信』第18号の論文「日本共産党と国労問題の総括 」(S・T)で、次のように評した。
今回の国労問題において、何よりも責任を問われるべき政党は、言うまでもなく、4党合意を結んだ当事者たる4つの政党であり、とりわけ、野党でありながら、そしてこの国労闘争を国政の方面から支えるべき立場にありながら、あからさまな裏切りと屈服の合意案に名前を連ねた社会民主党の反動的役割は、いくら強調してもしすぎることはない。この問題において社会民主党がとった立場は、この政党の政治的破産と絶望を改めて証明している。この政党にいかなる希望も幻想も抱くことはできない。
しかしそれと同時に、国労内では社会民主党と並ぶ大勢力であり、社民党の裏切りを糾弾しそれと闘う立場にあるはずの共産党が果たした役割も、きわめて裏切り的なものであった。それは、すでに述べたように、建前においては「4党合意案」を批判しながら、実践においてはそれの受け入れを推進し、最初の機会がありしだい退却と屈服の道を選択するという、二枚舌的なものであった。
こうした経過について「メモ」ではどのように語られているか?
2000年8月の「N・S」論文は、「四党合意」から80日近くも経過してから発表された、党の基本的見解を示したものであるが、これがもっと早く出されて、それに基づいて国労が実施した「四党合意」賛否の一票投票に対して反対×の態度を明確にした運動が進められていれば、「四党合意」を否決し、今日のような事態にはなっていなかったであろう。こうした点は労働局としての指導上の反省点である。
ただ「四党合意」が公表された当時、党としては適切に対処するために必要な「四党合意」が生まれる詳細な経過について知らされていなかったという事情があった。
「党としては適切に対処するために必要な『四党合意』が生まれる詳細な経過について知らされていなかった」とは、なんとも間抜けな言い訳だ。「知らされていなかった」のが事実だと仮定しても、それは、『しんぶん赤旗』が「4党合意」締結の報道をしなかったことの言い訳にはなるかもしれないが、「N・S」論文にもとづく「指導」とはまったく関係がないだろう。また、彼らにしてみれば、それは指導上の「誤り」ではなくて「反省点」だという。「誤り」の重大さを理解していないことは続きを読めばわかる。
国労の「四党合意」に依存する路線は、雇用問題の解決がまったく示されないなかで、組合内に対立が生まれ、「闘う闘争団」の結成など諸矛盾が噴出することになったのは当然である。それでも2001年1月の国労大会は「四党合意」受け入れと同時にILO勧告にそった「早期解決」の方針を決定した。
このように、機動隊の導入でもって「4党合意」受諾を決めた大会を「団結の方向を示した」と評価した『しんぶん赤旗』の解説記事を踏襲しているのである。なぜそんな説明が可能なのか? 指導の誤りを認めないのは、彼らがただ厚顔無恥なだけなのか? そうではない。彼らは、この時点ではまだ国労の「4党合意」依存路線が破綻したとは考えていないのである。