不破講演の民族主義的本質――岩本兼雄氏の投稿への反論

 不破哲三氏がわが党の事実上の最高指導者になって以来、日本共産党の右傾化、その民族主義的偏向はますます目にあまるものになっている。不破=志位指導部は共産党が築いてきた政治的財産を食いつぶしながら、政治的延命の方向を「右にウイングを伸ばす」ことに求めている。とりわけ、最近台頭しつつあるナショナリスティックな国民意識に迎合することで、「国民の党」「民族の党」を売り込もうとしている。つい最近でも、志位委員長は「日本の国益」などという、ぞっとするような言葉を使いながら、小泉の北朝鮮訪問をもろ手を挙げて歓迎する記者会見を行なった。
 今年の7月8日に行なわれた党創立記念集会での不破演説は、こうした右傾化路線の一つの顕著な現われに他ならない。前号のわれわれの批判論文「民族主義的自画自賛に終始した共産党史論――党創立80周年の不破演説批判」は、そうした問題意識にもとづいて、不破講演の問題点を具体的に明らかにした。
 この論文に対して、岩本兼雄氏からかなり詳細な反論をいただいた(8月18日付投稿「『さざ波』27号を批判する」。われわれはこの批判投稿を歓迎するとともに、それに対して簡単に反論をしておきたい。

1、転落について

 まず岩本氏は、われわれが「『従属国への転落』とは、それ以前は立派な独立国だったのに、哀れな従属国に転落したということを示唆している。不破氏の価値観においては、『独立した』侵略的帝国主義国であることと、従属した『非帝国主義国』であることとでは、後者よりも前者の方が劣るものらしい」と書いたことを取り上げて、次のように述べている。

 ここで貴紙が言いたいのは、不破氏が「転落」という言葉を用いているのは、氏の民族主義的な感覚の表現だということであろうが、私に言わせれば、このような批判は批判ではなくあげ足取りにすぎない。なぜなら、戦前の独立国が戦後従属国になったことを「転落」と表現しようが「陥った」と表現しようが、いっこうにかまわないことだからである。単に「なった」というように表現するよりもむしろ適切な表現ですらある。いずれにしても、この程度の議論にしかならない問題である。

 はたしてそうだろうか。「転落した」という表現ははっきりとした価値観の表明である。それは、以前よりも根本的に価値の劣った状態に「なった」ことを表現している。戦前の「独立した」帝国主義的侵略国と戦後の「従属した」非帝国主義とを比較して、前者よりも後者の方が劇的に悪いという価値観を持っていないかぎり、「転落」などという言葉は使わないだろう。たとえば、逃亡中の強盗殺人者が逮捕され服役したことをもって、自由で独立した人間から不自由な囚人に「転落した」と誰が言うだろうか?
 なお、われわれの論文での「前者」と「後者」という表記については単なるケアレスミスであり、文脈からして、岩本氏の推測通り、逆でなければならない。お詫びして訂正したい(本号発行後に修正しておく)。
 さて岩本氏は、「前者」と「後者」の表記について訂正したとして、それが不破氏への批判になるのかと問い、「不破氏が独立した侵略的帝国主義国に戻りたいなどと言っているわけではない」として、われわれの批判を退けている。もちろん、不破氏は「独立した侵略的帝国主義国に戻りたい」などとは言っていない。不破氏がそれを目標としているわけでないのは、あまりにも当然のことである。彼がめざしているのは「民主的」な独立国である。しかし、彼の価値観の中では、「独立した侵略的帝国主義国」の方が、他国に従属した惨めな状態よりも、まだましなのである。この価値序列こそが問題なのだ。この点について岩本氏はいったいどう考えるのか?

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