綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(中)

32、自衛隊と天皇制

 自衛隊と天皇制の問題は、ブルジョア・マスコミでも大きく取り上げられた問題であり(第23回大会の関連記事を参照せよ)、それゆえ、ここで別途、詳しく論じておきたい。

   自衛隊の問題
 まず自衛隊に関しては、現行綱領では「自衛隊の解散を要求する」という明確で簡潔な要求が書かれているが、綱領改定案ではすでに引用したように次のようになっている。

 「自衛隊については、海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第9条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」。

 『学習党活動版』臨時増刊号の公開討論の中では、これは自衛隊解散の要求を後退させたものではなく、その具体的なプロセスを述べたにすぎないとする意見が見られるし、党指導部自身もそのように説明している。しかし、そのような説明は、80年代における社会党と共産党とのやり取りを知っている者には通じない詭弁である。
 すでに、第22回党大会を批判した『さざ波通信』の論文「革新運動の大義を裏切った決議案」でも明らかにしたように、決定的なポイントは自衛隊解消のための条件として国際情勢を持ち出していることである(「アジア情勢の新しい展開を踏まえつつ」云々)。それ自体は一つの条約にすぎない安保条約と違って、巨大な人員と武器をともなった一個の物質的制度である自衛隊を解散するのには、もちろん、一定の技術的・手続き的な期間が必要であることは、以前から認識されていた。さらに、政治的にも、わが党は「再教育のうえ解散」という立場をとっていたし、その意味で政治的な段階性さえも承認していた。しかし、ここで問題になっているのは、解散に向けたそのような技術的・手続き的・政治的段階性ではない。ここで問題になっているのは、そもそも自衛隊を解散するべきかどうかを判断するうえで「アジア情勢」なるものが前提条件になっていることなのである。
 これこそが決定的な問題である。1980年代に社会党は、現在の共産党と同じく自衛隊解消の3段階論を打ち出し、その最終段階において自衛隊の解散に向かう条件として国際情勢の安定化という条件を持ち出した。このときわが党は、これが自衛隊の長期的存続論であり、事実上、自衛隊の容認論であると批判した。
 すでに以前の論文で引用しているが、ここで改めて80年代におけるわが党の社会党批判を引用しておこう。

 「社会党の『政策の懸案事項に関するプロジェクト』がまとめ、中執も了承した『自衛隊解消』の政策案も、『政権の安定度』『自衛隊の掌握度』『平和中立外交の進展の度合』『国民世論の支持』の4条件がすべて満たされるまでは自衛隊を存続させる、将釆の自衛隊解消のプロセスは『当面の処理の段階』『中間的見通しの段階』『究極目標の段階』の3段階とし、解消の国際環境がつくられるまでは自衛隊を存続させるとしており、事実上の自衛隊の長期存続容認論に立った社公合意路線そのものである
 土井委員長の主観的意図はともかく、社会党が社会合意路線をそのままにしているかぎり、社会党が連合政権に加わる前であれ、後であれ、この党が安保条約廃棄や自衛隊解散という革新的世論にこたえることができないことは明白である」(「土井社会党委員長の最近の路線発言をどうみるか」、『赤旗』1987年12月30日)。

 このように、当時の『赤旗』は、社会党の3段階解消論を、「解消の国際環境がつくられるまでは自衛隊を存続させる」ものであり、「事実上の自衛隊の長期存続容認論に立った社公合意路線そのものである」と批判していたのである。この論に従うなら、「アジア情勢の新しい展開」を自衛隊解散の条件としている綱領改定案もまた、「事実上の自衛隊の長期存続容認論に立った社公合意路線そのもの」であり、「自衛隊解散という革新的世論にこたえることができないことは明白である」※。

 ※注 ただし、「革新運動の大義を裏切った決議案」で明らかにしたように、共産党の自衛隊の段階的解消論は、当時の社会党の段階解消論よりもはるかに右よりであり、事実上の自衛隊の半永久的存続論である。なぜなら、志位委員長は、当時「国民のみなさんの合意が、みんなこれ(自衛隊)がなくても大丈夫だと、万が一でも大丈夫だとなって、そしてはじめて解消の段取りにふみだしていく」としているからである。つまり他国からの侵略の可能性が「万が一」でも残っていると「国民」の一部が思っているかぎり、自衛隊の解消には足を踏み出さないというのが、わが党の立場なのである。「万が一」の可能性もない、というのは、現実問題として想定不可能な事態であり、「国民のみなさん」がそのような想定不可能な事態に関して合意に至るというのはもっと想定不可能な事態である。したがって、共産党の自衛隊解消論は、事実上、自衛隊の半永久的存続論であり、この立場がついに綱領にまで貫徹しようというのが、今回の綱領改定案なのである。

 したがって、マスコミが、今回の綱領改定案をめぐって、自衛隊の当面存続論だと報道したのは誇張ではまったくなく、むしろきわめて控えめな評価なのである。

   天皇制の問題
 次に天皇制の問題について検討する。戦後の象徴天皇制に関する不破報告の解釈の誤りとご都合主義についてはすでに本稿の「」で十分に明らかにした。今度は、「民主的改革」の政策のところで書かれている将来の天皇制政策について検討しよう。まず、この問題に関しては、憲法問題にかかわって綱領改定案で次のような叙述がなされていることが重要である。

 「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」。

 これは、少なくとも民主連合政府であるあいだは、ずっと天皇制をも「まもる」ことをはっきりと表明したものである。これは、もちろん政治的民主主義の観点からして問題であるが、財政的な面からしても反動的である。綱領改定案には「軍縮」という要求項目はあっても、皇室予算の削減という要求はない。つまり、民主連合政府は、きわめて困難な財政状況(膨大な財政赤字はこの時にも残っているだろう)の中で、現在と同様に天皇と皇室という特権的・反動的身分を養う予算(たとえそれ自体はそれほど大きなものでなくても)を確保しつづけるということである。その分、当然、一般国民向けの予算は制限されるだろう。
 さらに、民主連合政府の成立過程の中で、天皇制廃止の国民的運動が盛り上がり、多くの民衆がその要求を民主連合政府に突きつけてきたとしても、そのような要求をきっぱりはねのけ、積極的に天皇制を「まもる」ことを、これは約束するものである。まずこのことを確認しておこう。この問題には後でもう一度立ち返る。
 次に、綱領改定案は、天皇制に絞って次のように述べている。

 「天皇条項については、『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。
 党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。しかし、これは憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」。

 この部分について、共産党がけっして天皇制そのものを容認したわけではなく、その将来の廃止のプログラムを具体的に明らかにしただけだ、との説明がなされている。たとえば、不破哲三は、「日本共産党創立81周年記念講演会」において次のように述べている。

 「私どもの綱領改定案についてマスコミに書かれるものを読みますと、いちばん興味をもって見ていただいているのが天皇制と自衛隊の問題で、『容認に変わった』『容認に変わった』と書かれました。ことの真相はいま説明した通りであります。……
 日本共産党は、今度の綱領改定案で、基本的な立場と目標を堅持しながら、これらの問題を国民とともに解決してゆく具体的で現実的なプロセスあるいは段取りを明確にしたわけです。いわば正義の旗をどのようにして現実のものとし、日本の現実に具体化するか、このことを明らかにしたところに、綱領改定の精神があるということを、ぜひご理解いただきたいと思うのであります」。

 これは、党員と支持者向けのまったくの詭弁である。この場合の「容認」とはどういう意味か? たしかに、綱領改定案の表現は、天皇制を積極的によいものだと認めているわけではない。しかし、政党の綱領というのは漠然と何らかの価値観を告白する場ではない。あくまでも明確な目標と方針を党員と国民に明示する場所である。君主制の廃止を明確に掲げている現行綱領の規定を削除し、少なくとも民主連合政府のあいだは「憲法の全条項を守る」と約束し、将来に関しても「民主共和制の政治体制の実現をはかるべき」などという曖昧な「べき」論でお茶を濁し、結局は、はっきりと廃止とは言わず、「情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」というように曖昧にごまかしている(いったい何をもって「情勢が熟した」とみなすのか、何をもって「解決」とみなすのか)。そうであるかぎり、綱領改定案が天皇制の存続を政治的に容認していることはまったく明らかである。政治綱領においては、「容認」という意味にこれ以上のものを求める必要はない(社会党が安保・自衛隊を容認したときでさえ、同党は別に安保・自衛隊を積極的によいものだと認めたわけではなかった)。
 たとえば、わが党が、安保条約の廃止を綱領に明確に掲げていたのが、その部分を削除し、「民主連合政府のあいだは安保条約を堅持する」「本来は安保条約のない非同盟中立の日本の実現をはかるべきであるが、その廃止は、将来、情勢が熟したときに国民の合意によって解決をはかるべき」と書き換えたらどうか? これでも、共産党は安保条約を容認していない、ただその廃止に向けた具体的なプログラムを明示しただけだ、などと評価するだろうか? 絶対にそんなことはありえない。
 このような言い方が、何か具体的な廃止プログラムだというなら、すべての目標、すべての政策、すべての方針について、そのような書き方をするべきだろう。
 次に、天皇問題に関する綱領改定案の表現をもう少し詳しく見てみよう。
 まず綱領改定案は「一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となるという現制度」と述べている。だが、象徴天皇制において「象徴」の地位にあるのは、党の公開討論の中で南沢大輔氏が的確に指摘しているように「天皇」のみである。天皇の家族は別に象徴でも何でもない。彼らは、天皇という特権的身分の家族として、同じように特権的地位を保証されているが、それはあくまでも彼ら自身が「象徴」だからではない。「象徴」規定を天皇の家族にまで拡大することこそ、「憲法の条項と精神からの逸脱」であろう。だがこのような「逸脱」はけっして偶然ではないし、筆が滑ったのでもない。そのように「象徴」規定を広げないと、天皇そのものではなく、その一族の死や生誕に際してわざわざ弔詞や賀詞の国会決議に賛成した自らのこの間の反動的行為を正当化できないからである。
 また、綱領改定案は、象徴天皇制の問題性をこの「一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴となる」ことにのみ見出し、そうした「現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではな」いとしている。家族の問題はすでに論じたので、より正確に表現すると、綱領改定案は要するに、「一人の個人が『国民統合』の象徴となる」ことが「民主主義および人間の平等の原則と両立」しないとみなしているのである。これは天皇制批判としてはまったく的外れである。
 「一人の個人が国民統合の象徴となること」それ自体には、何ら「民主主義および人間の平等の原則」に反する要素はない。大統領制をとっている国では、大統領という個人が「国民統合」の象徴になっている。決定的な問題は、「一人の個人が国民統合の象徴となること」そのものではなく、その「一人の個人」が選挙で選ばれたのでもなんでもなく、世襲によって決定されていること、そしてその世襲の対象が、戦後独自に選定された血筋の者ではなく、戦前の絶対主義的天皇制の担い手であった他ならぬあの特定の血筋であること、これが決定的な問題なのである。世襲という君主制的な要素、そして、朝鮮半島や中国大陸や東南アジアなどに侵略戦争を行ない、国内では絶対的な専制政治を敷き、戦後はアメリカ帝国主義によって支配のための道具として温存されたあの裕仁の血筋が世襲の対象であること、このことこそが「民主主義および人間の平等の原則」に反するし、主権在民と平和主義と基本的人権の尊重をうたった戦後憲法の根本精神に反するし、その他いっさいの進歩的要求に反するのである。そしてそれこそが、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配の道具としてのこの制度の核心をなしているのである※。

 ※注 福祉国家の進んだヨーロッパ諸国にも立憲君主制が残っていることを持ち出して、日本における君主制の残存物の問題を過小評価する議論が一部に見られるが、それは一面的である。日本では、天皇制は、単に形骸化した君主制の一種というだけでなく、戦前においては血ぬられた侵略戦争と専制政治の最高責任者であり、戦後においてはアメリカ帝国主義によって戦後統治の道具として温存された「君主制」の一種なのであり、そこにこそ、この制度の特殊な反動性があるのである。なぜ日本では、一般マスコミで絶対に天皇を批判することができないのか、なぜ天皇の戦争責任に言及しただけで市民が命を狙われるのか? なぜ日本の最も反動的で暴力的な分子が天皇主義者なのか? このようなことは北欧諸国では考えられない。この天皇制の特殊性を直視するかぎり、日本における何らかの本格的で真面目な民主主義的変革の事業はけっして天皇制の問題を避けて通ることができないのである。

 不破は、結語の中で、今回の綱領改定案の最も重要な核心を「民主主義革命論を仕上げたこと」だと述べている。だが「民主主義革命」というからには、何はともあれ、民主共和制を実現することは最低限の政治的要請である。それさえも実現できないのなら、「民主主義革命」を称する資格はない。しかし、民主主義革命を仕上げたと称するこの綱領改定案には、「民主共和制」という言葉はこの一箇所しかなく、しかも、明確に実現する目標としてではなく、「実現するべき」などという価値観の単なる表明に終わっているのである。羊頭狗肉もいいところだ。「民主共和制の実現」をはっきりと宣言することもできない政党が、「民主主義革命」などという言葉を弄び、「共産党」を名乗っているのだから驚きである。
 ところで、不破報告は、現行綱領が君主制の廃止を民主主義革命の課題として明示していることについて、次のような驚くべき解釈を示している。

 「現在の綱領には、『君主制の廃止』ということが、民主主義革命のなかで実行されるべき課題としてあげられています。これは、綱領を最初に決めた当時、現行憲法の枠内での改革と、憲法の改定を必要とする改革との区別が十分明確にされなかった、という問題点と結びついていたものだったと思います」。

 歴史を偽造するのもいい加減にしてもらいたい。何年もの歳月をかけ全党の英知を結集して制定された61年綱領の当時の制定者たちが、天皇制を廃止するには憲法の改正が必要であるというごく単純な事実について十分認識していなかったとでも言うのか! もちろんそんなことはありえない。すでに本稿の「」でも引用したが、当時の綱領作成を指導した宮本顕治は、第8回党大会の直前の1961年5月の都道府県委員長会議で次のように述べている。

 「現行憲法の改悪反対、憲法に保障された平和的民主的条項の完全実施は、わが党が一貫してたたかってきた要求であり今後もたたかっていく課題であります。ここにこの新しい叙述をくわえたのは、戦後の民主革命の挫折という問題と現行憲法の関連を戦後の政治過程のなかで位置づけ、われわれがどういう意味で現行憲法を擁護し、同時に、どういう点では手をしばられるものではないということを明らかにするためであります」(宮本顕治「綱領(草案)について」、『日本革命の展望』上、新日本新書、114~115頁)。

 このように、当たり前のことだが、天皇制の廃止が憲法の改定を必要とするものであることは十分に認識されていた。だからこそ、この君主制廃止の要求は、当初は行動綱領に入っていたのが、現行綱領にあるように、民主主義革命を実際に遂行する過程での課題に移動されたのである。民主主義革命を実行しうるほどに圧倒的多数の人民の支持をえている政権が、当然、憲法の進歩的改正の動議と国民投票をしても支持をえられるとの確信にもとづいて、この部分に「君主制の廃止」要求が入れられたわけである。
 それとも不破は、憲法を進歩的な方向で改正する方が、革命を実行するよりも困難であるとみなしているのだろうか? 不破の力説する多数者革命の論理からすれば、そんなことはありえない。だが、不破は明らかに、憲法の進歩的改正のほうが圧倒的に困難であると考えている。だからこそ、天皇制問題の「解決」(?)は「情勢の熟する」不確定の未来に棚上げされたわけである。
 こうした発想が出てくるのは、不破指導部のいう「民主主義革命」なるものが実際には「革命」でも何でもなく、単なる改良主義的な改革にすぎないことを、彼ら自身が自覚しているからである。
 さらに、綱領改定案においては「情勢の成熟」はまるで、時間がたてば果物が熟するかのようにまったく傍観者的に書かれている。そうした「情勢の成熟」のために党が今から主体的に努力するのかどうかいっさい書かれていない。変革主体の努力抜きに、勝手に情勢と世論が君主制廃止に向けて成熟するとでもいうのか? いつの日か党と無関係に天皇制廃止の情勢と世論が成熟した暁には、わが党もそれに便乗するのはやぶさかではない、というわけだ。
 かつてわが党は、天皇制廃止が将来の課題であるとしても、今この時点から天皇制が主権在民や民主主義と根本的に相容れないことを宣伝・啓発し、そうした情勢の成熟を主体的にかちとることこそが重要であるという立場に立っていた。本稿の「」でも紹介した和泉重行氏(当時、党中央委員会政治外交委員)の論文「『象徴天皇制』――その危険な役割」は「おわりに――「主権在民」の徹底を展望して」の中で次のように述べている。非常に長いが重要なので、引用しよう。なぜならこの文章は、現在の党指導部の現状追随的な卑屈さとあまりにも鮮明な対照を成しているからである。

 「憲法の『主権在民』原則を、よりいっそう発揚し徹底するためにはどうすべきか? このことを最後に考えたいと思います。……  たしかに、本稿の最初でも紹介したように、いまの『象徴天皇制』は、いままでのところ多くの国民の支持をえているといえるものです。しかし、だからといって、憲法の『主権在民』原則を、文字どおり花も実もあるものにするのか、それとも不徹底なままにしておくのかというこの根本問題、原則問題をあいまいにするわけにはいきません。
 なぜなら、第一に、たとえどれだけ多くの人びとが『支持』しようと、歴史と道理にてらして正しくないことは正しくないことだからです。歴史の流れにただ身をまかせるのではなく、歴史を積極的に創造する立場に立つ私たちは、つぎのことを確固とした共通の確信にする必要があるでしょう。
 『かりに抑圧政治のためにヒットラーにたいする盲信を教え込まれてきた多数のドイツ国民がヒットラーを元首としたとしても、それがドイツの民主化には絶対ならないと同様に、特権的身分であり、特権階級の象徴である天皇を国民の多数がこのような位置におくことに同意したとしても、それは日本の民主化では絶対なく、主権在民の裏書きにも絶対ならないのである。国民の総意の表明が民主的な進歩でありうるのは、民主的な目標にたいする賛同である場合だけである、国民の多数によってファシズムを採用しても、それを民主主義的方向への総意と呼び得ないと同様である』(宮本顕治『天皇制批判について』)
 そして第二に、いまは多くの国民が『象徴天皇制』を支持していても、天皇制=君主制が歴史的に淘汰されるという私たちの展望は、かならず実現するものだからです。
 たびたびふれてきたように、日本共産党は、党創立いらい一貫して『君主制の打倒』『主権在民の確立』をめざしてたたかいぬいてきました。わが党のこの不屈のたたかいが、憲法への『主権在民』の明記、絶対主義的天皇制の崩壊に大きく寄与したことはあきらかです。戦前にはごく“少数派”の要求であった『主権在民』は、いま現に憲法に明記されるまでになり、国民の常識になっています。
 『主権在民』の徹底という目標を完全にやりとげるために、わが党は、いまの綱領で、将来、『君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつ』くることをめざしています。もちろん、国民が納得しないままに力ずくでことをすすめることは正しい解決ではありません。またそういうこころみはけっして成功しないでしょう。歴史を前進させることのできるのは、人民のエネルギーだけだからです。
 このエネルギーは、かならず正しい方向と内容で発揮されます。いままでのべてきたような『象徴天皇制』の反動的な本質を、うまずたゆまず国民にうったえていくならば、国民はかならず、“天皇制は、いかなる形で存在しようとも、国民の根本要求である『主権在民』の徹底とはあいいれないものである”という結論に到達するでしょう
 現にいままでのべてきたことでもあきらかなように、『象徴天皇制』が憲法に盛り込まれたいきさつとその後の実際の動向は、国民の選択ともあいいれず、期待にも反するものでした。さらに、天皇と天皇制をも利用しながらすすめられている、日米軍事同盟のもとでの軍国主義、帝国主義の復活・強化の策動は、国民の根本利益と自民党政治とが両立できないものであることを日増しに実証しつつあります。
 この矛盾にたいする国民的自覚が、国の仕組みそのものの『建て直し』にむくことも必然です。
 私たちは、ここに確信をもって、天皇と保守反動勢力がたえず繰り返している、憲法からの逸脱、憲法改悪のたくらみに断固として反対し、『主権在民』原則をまもり発展させる創造的なたたかいを、より旺盛に、意気高くすすめようではありませんか」(『前衛』1988年6月号、63~64頁、強調は引用者)。

 これがわずか15年前のわが党の立場であった。このときわれわれ党員は、わが党の勇気と先進性と不屈さに感動し、日本共産党員であることにいかに深い誇りと確信をもっていたことか! そして、いかにこの誇りと確信が、不破哲三が最高指導者となったこのわずか5年ちょっとで完全に踏みにじられ、跡形もなく葬り去られたことか! 
 天皇制をめぐる綱領改定案の問題性は以上でまだすべてではない。先ほど引用した綱領改定案の「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり」という項目に立ち戻ろう。この部分は、同じ綱領改定案にある「その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」という展望と実は深く矛盾している。もしこのような「成熟」が民主連合政府を成立させる過程で実現したらどうするのか、あるいは、民主連合政府の存続中に情勢が成熟したらどうするのか? 党指導部はこのような事態を最初から想定していないようである。つまり、不破指導部は、彼らが今や絶対化している「国民の判断」をないがしろにして、「民主連合政府」が成立しているあいだにこのような「成熟」は実現されないだろうと決めつけているのである。
 だが、仮にも「共産党」を名乗っている勢力を中心とする政権が、あらゆる妨害や抵抗を押しのけて政権を奪取し、それが長期存続するほどに情勢が成熟しているというのに、天皇制をめぐる世論だけは旧態依然のままであるなどということがあるだろうか。安保条約の廃棄や米軍基地の一掃といった劇的な変革をなしとげようと国民の多数派が決意するような事態になっているのに、過去の遺物であり反動の道具である天皇制に対する考えが変わらないということがあるだろうか。当然、天皇制に関しても国民意識が変わっているだろうし、少なくとも変わりうるような条件がいちじるしく増大しているとみなすべきである。
 にもかかわらず、綱領改定案は、民主連合政府が成立しているあいだは「憲法の全条項をまもる」と公約しているのである。当然、このような矛盾が生じないためには、共産党を中心とする統一戦線勢力は、天皇制をめぐって国民世論が間違っても「急進化」しないように努力することになるだろう。すなわち、共産党は、天皇制廃止を求める世論の成熟に向けた啓発活動をけっしてしないだろうし、もしそのような世論が共産党とは独立に広がったら、それに冷や水をかけ、妨害するようになるだろう。そして、すでに述べたように、民主連合政府が成立し、その政府に対して「国民」が天皇制廃止の要求を突きつけてきたら、民主連合政府はそうした要求をきっぱり退け、おそらくは、憲法を破壊する挑発分子だとして糾弾しはじめることだろう。こうして共産党を中心とする民主連合政府は、他ならぬ「民主主義革命」の時期に、単に受動的に「天皇制と共存」(日本共産党創立81周年記念講演会での不破の表現)するだけでなく、天皇制を積極的に防衛する反動勢力として登場することになるのである。これが、綱領改定案がはらんでいる根本的な矛盾である。

 以上見たように、綱領改定案において、共産党が、事実上、自衛隊と天皇制の存続を政治的に容認する立場に転落しようとしていることは明らかである。この事実を前にしてもなお、共産党は自衛隊そのものを容認したわけではない、とか、天皇制そのものを容認したわけではない、などと言って共産党指導部を弁護しようとするのは、現実に背を向けて、幻想世界に逃避することを意味する。現実を直視しよう。日本共産党は1980年代の社会党の後を追って、ルビコン河を渡り、反革新の立場に転落しつつあるのだ。

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