6中総で予告されていた日本共産党綱領の全面改定案が、ついに7中総で発表された。その内容は、これまでの不破指導部の発言と行動からしてある程度予測可能なものであったし、またわれわれは『日本共産党の80年』を検討する中で、綱領改定の内容がここかしこで先取りされているとの推測を示した。実際に提案された綱領改定案は、そうしたわれわれの予想を十分裏書きするものであった。同時に、いくつかの重要な問題で、われわれの予想をも越える重大な後退と変質も見られた。
本稿と次号の「下」において、われわれは綱領改定案を逐次的に検討し、それが現行綱領の戦闘的・革命的内容を基本的に廃棄するものであり、日本共産党の議会主義的改良主義政党への完全変質を画するものであることを証明する。
いま歴史的に振り返ってみて、1994年7月に開催された第20回党大会から今年2003年11月に開催予定の第23回党大会までの約10年間は、宮本共産党から不破共産党への転換のための「過渡期」であったと評価することができるだろう。宮本共産党時代にも、多くの馬鹿げた誤り、スターリン主義的抑圧、セクト主義と独善、とりわけ新日和見主義事件以降にしだいに顕著になっていった議会主義的・民族主義的路線への移行などが見られたとはいえ、それでも61年に制定されその後部分的に改定された現行綱領の革命路線は維持され、帝国主義問題や天皇制問題ではかなり原則的な立場がとられていた。
しかし、宮本顕治が出席しなかった最初の大会たる第20回党大会以降、宮本の指導力と影響力が急速に衰えるのと平行して、もともと構造改革派であり天皇制容認論者であった不破哲三のヘゲモニーが強化されていった。不破は、10年という長い年月を費やして、徐々に共産党の完全な変質に向けた「構造改革」を実行していった。
この10年間はさらに、二つの時期に分けることができる。宮本顕治の影響力がまだ残っていた前半期(94~98年)と、完全に不破哲三のヘゲモニーのもとに新しい路線が遂行され始めた98年以降の後半期である。前半期においては、96年に宮本顕治が脳卒中で倒れて、完全に政治の舞台から退いたことが一つの画期になっているが、宮本引退後も不破はただちに独自の路線を遂行することはできなかった。それが可能になったのは、97年の第21回党大会で、宮本色の強い主要な幹部が次々と引退に追い込まれたことである。確固たる人事的基盤を確保した不破は、98年参院選における共産党の大躍進をきっかけとして、ついに独自路線の実施に足を踏み出した。それが、安保問題を棚上げした「野党の暫定連合政権構想」の提起である。
この「暫定連合政権構想」を知ったとき、われわれはただちに、この「政権構想」がこれまでの路線の連続でもなければ、その適用でもなく、根本的に新しい路線の開始を告げるものであることを理解した。当時、この「政権構想」をそのような危機的意識を持って受け止めた党員はほとんどいなかった。しかし、それ以降に矢継ぎ早に起こった一連の出来事――国旗・国歌の法制化の積極的容認、不審船銃撃の容認、『新日本共産党宣言』における「臨時の軍事力」容認論、帝国主義的な野党外交の推進、東チモールへの多国籍軍派遣に戦費支出することの積極的肯定、「皇太后」死去に際しての弔意の表明と弔詞決議への賛成、天皇条項の擁護の表明、自衛隊活用論、国鉄闘争への裏切り、規約の全面改悪、石原都政への是々非々論、消費税問題でのジグザグ、アフガニスタン問題での軍事制裁の肯定、海上保安庁法改悪への賛成、多国籍企業優遇の日韓投資協定への賛成、愛子生誕に際しての賀詞決議への賛成、不審船撃沈の容認、治安立法であるテロ資金規正法への賛成、中国共産党の資本主義化路線への全面礼賛、北朝鮮当局への迎合的態度、党史の歪曲と偽造(『日本共産党の80年』)、等々――は、われわれが抱いた危機感が完全に正しかったことを証明した。
今回、ついに不破指導部は、現行綱領を全面的に改定し、これまでの改良主義路線を綱領化しようとしている。今回の綱領改定案は、おおむね3つの要素によって構成されている。まず第1に、1973年の新日和見主義事件以降にしだいに顕著になっていく議会主義路線を綱領にまで貫徹させ、体系化し、より拡大していること(この面では、多くの党員にとってすでに30年におよぶ「蓄積」があるので比較的違和感の少ないところであろう)、第2に、宮本の引退後、現行綱領に反してなされてきた不破指導部の独自の日和見主義路線(宮本時代にかろうじて残っていた原則性や戦闘性をも投げ捨てる立場)を後から正当化し、綱領的基礎づけを与えていること※、第3に、不破の個人的な思いつきや恣意的な理論を強引に綱領に押し込んでいること、である。
※注 この不破路線の綱領的基礎づけに関しては、実は、その最初の試みがすでに2年以上も前になされている。それは、2001年1月に行なわれた中央党学校でなされた不破の綱領問題講義であり、そこでは、今回の綱領改定案の原型となる多くの発想や理解が、現行綱領の解釈という形で出されている(不破哲三『日本共産党綱領を読む』、新日本出版社、2001年。ちなみに、同じ中央党学校で行なわれた科学的社会主義に関する不破の講義も同じような役割を果たしている。同『科学的社会主義を学ぶ』、新日本出版社、2001年)。今回の綱領改定案は、この時の講義における綱領解釈という形をとった新しい立場をさらに徹底させたものである。もはや、現行綱領の「解釈改憲」では限界があると踏んだのであろう。先に解釈改憲をし、その限界内でどんどん既成事実を積み重ね、最後に憲法そのものを変えようとするという行動パターンは、何も自民党の専売特許ではないのである。
以上の点から、今回の綱領改定案はいわば事実上の不破綱領と言うべきもので、「改定」という形式をとった新綱領の制定であると言える。それは、近い将来における政権入りを目指して、その障害となるような綱領の規定を実質的になくしていくことを最大の目的としている。それは基本的にはイタリア左翼民主党と同じ路線を志向するものだが、不破指導部は、イタリア左翼民主党とは違い、過去との自覚的かつラディカルな断絶によって新しい体制内改良政党の道を歩むのではなく、61年綱領の革命的伝統のもとで入党した多くの共産党員をまるごと新しい改良主義政党へと導くために、過去との形式的連続性を維持することに腐心している。党名は維持されるし、スターリン主義的「民主集中制」は維持されるし、綱領においても、言葉の上では現行綱領のさまざまな概念――従属、支配、民主主義革命、階級、帝国主義、権力、社会主義・共産主義、等々――が引きつがれている。だが、それらの言葉の意味を根本的に変質させ、マルクス主義的ないしレーニン主義的な国家論、階級論、革命論、帝国主義論から決別するというきわめて高度なやり方がとられているのである。
この大事業が達成されたなら(現在の力関係からして間違いなく達成されるだろう)、共産党の路線転換は基本的に綱領的基礎をもつにいたり、共産党の改良主義的変質は決定的なものになるだろう。もはやそれは、共産主義政党でもなければ、革命政党でもなく、スターリン主義的伝統と体質を強く持った改良主義政党(日本型スターリニズムと日本型社会民主主義のアマルガム)になるだろう。
しかし実は、今回の綱領改定案でさえ、不破路線の最終的到達点ではない。それはなお過渡的な性格をもっている。言葉の上だけとはいえ、帝国主義や革命や権力や社会主義・共産主義という言葉が綱領には残っている。そうした形式的継続性は、党員をだますために必要なものであったが、こうした言葉が残っているだけでブルジョアジーには信用されないだろうし、民主党などのブルジョア政党も不信を抱き続けるだろう。かといって、あまりに大胆な転換をしてしまえば、党員の多くがついていけなくなり、不破の最大の権力基盤であり政権入りのための道具でもある党員と党機構そのものが解体されかねない。
党の簒奪者たる不破哲三は、この点で綱渡りをしなければならない。転換しすぎても駄目だし、しなさすぎても駄目である。そこで今回は、根本的転換の第一段階として、あれこれの形式的継続性に配慮し、その実質的意味を変えることにした。そして、この新綱領のもとで党員の再教育が十分なされたならば、不破指導部は再び、よりいっそう大胆な「党改革」に着手するだろう。次の綱領改定(ないし新綱領の制定)が何年後になるかを予言することはできない。だがそれはそんなに先のことではないだろう。そのときには、今回の綱領改定案のような、過去との形式的継続の努力さえほとんど放棄されるにいたるだろう。不破路線にこれまで盲目的に追随してきた党員たちは、もちろん、そのときになっても何の抵抗もなしえないだろう。
戦前、どんな激しい弾圧のもとでも、非合法化や大量検挙や拷問によっても屈服させることのできなかった日本共産党は、そのような弾圧のない合法時代の今日、自らすすんで支配権力に屈服しようとしているのである。あっぱれ老いたモグラよ、君はついに党の基盤を掘りくずし、それを転覆することに成功した!
以下、今回の綱領改定案とそれに関する不破の報告を逐次的に検討しよう。