綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(下)

38、社会主義的変革の内容(1)――労働者階級の権力の消失

 綱領改定案は、「社会発展の次の段階」について語った後、社会主義的変革の内容について次のように語っている。

 「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される。
 生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。
 生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。
 生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組みから解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす。
 社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。『搾取の自由』は制限され、改革の前進のなかで廃止をめざす。搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、『国民が主人公』という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる」。

 この部分は、現行綱領では次のようになっている。

 
 「社会主義の目標は、資本主義制度にもとづくいっさいの搾取からの解放、まずしさからの最終的な解放にある。そのためには、社会主義建設を任務とする労働者階級の権力の確立、大企業の手にある主要な生産手段を社会の手に移す生産手段の社会化、国民生活と日本経済のゆたかな繁栄を保障するために生産力をむだなく効果的に活用する社会主義的計画経済が必要である。その推進にあたっては、農漁業・中小商工業など私的な発意の尊重、計画経済と市場経済の結合など弾力的で効率的な経済運営、社会主義的民主主義の発揚、民族自決権の擁護・核兵器廃絶を中心とする世界平和への積極的貢献などを重視し、堅持しなければならない」。

 綱領改定案の記述と綱領改定案の記述を比べると、記述が充実した部分と削除された部分があることがわかる。それぞれについて具体的に見ていこう。

 まず削除された部分だが、いちばん目立つものは何よりも、現行綱領において社会主義革命の第一の条件として明示されていた「社会主義建設を任務とする労働者階級の権力の確立」という文言が削除されていることである。このことについて不破は、十分な説明をまったく行なっていないが、説明らしきものとして、二つのものを引用することができる。まず第一に、不破は、「質問・意見に答える」において、なぜ社会主義革命と呼ばず「社会主義的変革」と呼ぶのかという質問に答えて、次のように述べている。

 「では、社会主義への前進のさいに、同じようなことが起こるだろうか、というと、この過程には、いろいろな場合がありえます。国民の大多数が社会主義・共産主義への前進を支持するときには、政権を構成している勢力のあいだでも、それに対応する前進があるでしょうから、民主連合政府が、『社会主義をめざす権力』に成長・発展するという場合もあるでしょう。あるいは、情勢の進展のなかで、政権勢力のあいだに再編成が起こり、政権の構成が変わる、という場合もあるでしょう。実際的には考えにくいことですが、理論的には、別個の勢力がそれまでの政権にとってかわって、新しい任務の推進者になるという場合も、起こらないとはいえません。社会主義的変革への発展は、国の権力という面から見ると、こういうさまざまな可能性をふくみますから、国の権力が別の勢力の手に移行することを意味する『革命』という言葉は、使いませんでした」。

 この「革命」か「変革」かという問題については、すでに本稿の「」の「26、民主主義革命と権力の移行」中で、「政治革命」と「社会革命」との関連として論じたが、ここでは、社会主義的変革における「権力の移行」の問題について論じよう。
 不破の説明によれば、社会主義への前進の際には権力の移行に関してさまざまな場合がありうるし、民主連合政府が「『社会主義をめざす権力』に成長・発展するという場合もある」し、あるいは「政権勢力のあいだに再編成が起こり、政権の構成が変わる、という場合もある」ので、権力の移行を意味する「革命」は使わない、ということらしい。しかしこのような説明は、現行綱領確定以来何度となく党指導部自身が繰り返し説明してきたことを真っ向から否定するものである。
 すでに引用した第7回党大会における宮本報告の一節は、人民民主主義権力が社会主義権力に成長発展するという場合を当然想定しつつ、その場合でも、人民民主主義政権内部における共産党と労働者階級の指導性が強まり、プロレタリアートの独裁といえるまで強化された場合にそれが「社会主義権力」になるとしている。つまり、同じ民主主義政権であっても、その内部で権力の指導的主体が人民諸階級から労働者階級に移行することによって、当然、権力の移行をともなうのだとしているのである。だからこそ、二段階連続革命という図式が成り立つわけである。だが、綱領改定案は、「二段階」という図式を形式的に維持しつつ、その前提となる両革命間における階級的権力移行を否定してしまっているのである。
 第二の説明は、不破報告における次の一節である。

 「この文章にある『社会主義をめざす権力』という言葉は、いまの綱領で、『労働者階級の権力』といわれているものです。1976年の第13回臨時党大会、この問題についての綱領の一部改定をおこなった時の報告で、なぜ社会主義をめざす権力を『労働者階級の権力』と呼ぶのか、という問題について、理論の歴史をふくめて詳しい解明をおこないました。今回の改定案では、そういう特別の説明がいらないように、最初から、この権力の役割そのものを表現したものです」。

 まったく意味の不明な説明である。「この権力の役割そのものを表現した」らどうして、「労働者階級の権力」という言葉が削除されうるのか? ここで言う「役割」とは「社会主義をめざす」ということであろうが、そもそも現行綱領にはすでに「社会主義建設を任務とする労働者階級の権力」というように「役割」についてもきちんと書かれている。不破の説明は最初から完全に破綻している。  さらに、「社会主義をめざす」というだけでは、その事業の中心的階級、推進的階級は何であるのかはまったく明白ではない。なぜなら、労働者階級と無関係に「社会主義をめざす」事業を想定する社会主義的潮流は過去にいくらでも存在したからである。上の引用文で不破自身が述べているように、第13回臨時党大会での綱領一部改定報告の中で、どうして「労働者階級の権力」という表現を用いるかについて不破は詳しく解明しているが、その中で不破はとりわけ次のように述べている。

 「『執権』の用語の削除に反対する意見の第一は“この用語の削除は科学的社会主義の原則の放棄を意味する”という主張であります。しかし、科学的社会主義の学説と事業にとって本質的なことは、『執権』という用語ではなくて、労働者階級による政治権力の獲得という見解と思想そのものにあることを、指摘しなければなりません。もし、この思想の内容ではなく、『執権』という用語自体に、科学的社会主義をその他の潮流からわける本質的な標識があるのだとしたら、マルクス、エンゲルス自身が、科学的社会主義の基本思想を説明した『共産党宣言』も『空想から科学へ』や、『反デューリング論』も、あるいはまた『フランスにける内乱』などの著作も、すべて科学的社会主義の原則や核心を欠いた著作だということになってしまいますが、この結論の不合理さは、あまりにも明白です」(『前衛臨時増刊 日本共産党第13回臨時党大会特集』、105頁、強調引用者)。

 このように、不破は自ら、「労働者階級による政治権力の獲得」という見地こそ、「科学的社会主義の学説と事業にとって本質的なこと」であり、「科学的社会主義をその他の潮流からわける本質的な標識」があるとしているのである。つまり、「社会主義をめざす」潮流はさまざま存在するが、その事業が何よりも「労働者階級の権力獲得」によって実現されるという点を明確にしたことこそ、他の社会主義潮流と異なるマルクス、エンゲルスの立場であり、科学的社会主義の本質的立場であるとしているのである。とすれば、「社会主義をめざす権力」と表現したから、「労働者階級の権力」について言及する必要がなくなるということは絶対にありえない。不破は、第13回臨時党大会で自ら語ったことさえ否定して、「社会主義をめざす」と言っているのだから、それが「労働者階級の権力」だとする「特別の説明」(!)は必要ない、と言うのである

 ※注 この点については現在の党委員長である志位和夫氏にあっても完全に明確である。彼は、加藤哲郎氏の社会主義論を高飛車に批判した1990年の論文「社会主義をなげすてた『タマネギの皮むき』」の中で、加藤氏を次のように批判している。
 「加藤氏のいう『第一のコース』と『第二のコース』を見比べてみればわかるように、ここで彼が、『エンゲルス=レーニン型国家論』として、否定していることの核心が、プロレタリアートの執権、すなわち労働者階級の権力(国家権力)の獲得という科学的社会主義の根本的立場であることは明らかである。……
 もともと、社会主義的変革をおしすすめるためには、労働者階級は国家権力を自ら掌握しなければならないという思想は、マルクス、エンゲルスによってはじめてうちたてられた思想であった。そして、マルクス、エンゲルスは、この思想が、科学的社会主義とそれ以外のさまざまな『社会主義』をなのる諸潮流をわける重要な分水嶺の一つであることを、くりかえし語り、この思想が科学的社会主義の国家論、革命論のもっとも重要な概念の一つであることをくりかえし強調した。たとえば、マルクスが、『ヴァイデマイヤーへの手紙』(1852年3月5日付)のなかで、諸階級の存在と階級闘争を発見したのは自分の功績ではないことをのべて、『階級闘争は必然的にプロレタリアート執権に導くということ』を、彼の新しい発見の一つとして強調していることは、よく知られていることである(全集20巻、407ページ)。こういうマルクスの立場を全体として研究するのではなく、その一部分のしかも草稿段階でのわずかな一節の断片的引用に、みずからの無政府主義的主張の根拠をもとめようというのは、科学的な態度とはいえない」(志位和夫『激動する世界と科学的社会主義』、新日本出版社、263、265頁)。
 ちなみに、志位氏はこの論文の中で、加藤氏の罪業の一つとして、前衛党の必要性を否定したことを挙げ、さらに前衛党論がレーニン起源であるとする加藤氏の説を居丈高に批判し、前衛党概念がマルクス、エンゲルス以来のものであることを力説している(同前、258~259頁)。不破哲三が、この加藤説の10年後にまったく同じことを言い出したとき、志位氏がこの自分の論文を思い出したかどうかは定かではない。

 また、なぜ社会主義の権力を「労働者階級の権力」と規定するのかについて、同じ第13回臨時党大会で不破は次のように述べている。

 「党綱領が、社会主義権力を『労働者階級の権力』と規定するのは、なによりもまず、労働者階級の歴史的使命である社会主義的変革と社会主義建設を実行し、推進する権力という意味であります。資本主義社会のなかに、労働者階級という、『資本主義的生産様式の変革と諸階級の最終的廃止とを自己の歴史的使命とする階級』(マルクス)を発見したことは、マルクス、エンゲルスが科学的社会主義の学説をつくりあげるうえで、いいかえれば、社会主義を空想から科学に変えるうえで、決定的な歩みの一つとなった間題でした。
 かれらは、労働者階級が、資本主義社会におけるその階級的利害からいっても、また社会的生産におけるその地位からいっても、さらには、資本主義社会で量的にももっとも急速に成長し、階級としての組織性と規律性をもっともそなえた階級だという点からいっても、資本主義的搾取に苦しめられているすべての勤労者大衆の先頭にたって、資本主義社会の変革と社会主義の実現をめざす歴史的使命をになっていることを、全面的にあきらかにしました。社会主義の権力は、それがどういう形態で実現されようと、労働者階級のこの歴史的使命を代表する権力であり、この権力の誕生にいたる革命闘争の過程でも、権力が樹立された後においても、階級として、労働者階級が社会主義的変革のなかで、主導的、中心的役割を果たすべきことは、当然ですし、労働者階級が、そういう役割を果たしうるところまで、階級的な発展をとげないあいだは、社会主義的変革は、現実の日程にのぼりえないでしょう。党綱領は、そういう意味で、社会主義権力の階級的性格を、『労働者階級の権力』と規定しているわけであります」(同前、108~109頁)。

 このように、不破は、資本主義的生産様式を廃止する歴史的使命を持った階級としての労働者階級の発見を「マルクス、エンゲルスが科学的社会主義の学説をつくりあげるうえで、いいかえれば、社会主義を空想から科学に変えるうえで、決定的な歩みの一つ」であると述べていた。ここからも、「社会主義をめざす権力」というだけでは、科学的社会主義の本来の立場が何ら解明されないことは明らかである。
 では、なぜ綱領改定案では「労働者階級の権力」という科学的社会主義の根本的立場を表現する概念が削除されたのだろうか。それは言うまでもなく明らかである。それは、まさに共産党が「労働者階級の党」から「国民の党」へと変質しつつあることの綱領的表現なのである。

←前のページ もくじ 次のページ→

このページの先頭へ