本稿の「上」においては、綱領改定案の第1章と第2章を検討し、「中」では、綱領改定案の第3章と第4章をそれぞれ検討した。本稿においては、綱領改定案の第5章を検討するとともに、関連する諸問題について検討したい。
本稿の「中」の最後で「連続革命的見地の完全放棄」について論じたが、このことの悪影響は、綱領改定案の第5章の冒頭部分にもはっきりと示されている。
「日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる」。
これは、社会変革のダイナミズム、階級闘争のダイナミズムをまったく無視した教科書的展望である。不破指導部は、薬剤師のような厳密さで、資本主義の枠内の「民主的改革」の課題と、それを越える「社会主義的変革」の課題とを区別しようとする。あたかも、民主主義的課題と社会主義的課題とのあいだに目に見える太い境界線が引かれてあって、その手前でやることをすべてやって、よっこらしょとばかりにその境界をまたぐことができるかのようである。
だが、社会変革のダイナミズムはそのようなものではない。民主主義革命の段階で、すでに激しい階級闘争が繰り広げられるだろうし、その闘争は必然的に、不破が自然科学者的発想で分割している民主的課題と社会主義的課題との境界を乗り越えることを変革主体の側に余儀なくさせるだろう。日本独占資本が、いずれ自らの所有する生産手段が社会的所有に移されることがわかっているのに、当面する課題が民主的変革であるからといって、共産党を中心とする政権に黙って服従するだろうか? 「次の段階」で解体されるというのに、今の段階で毛皮を刈られるのをおとなしく受け入れる羊のように。
だが独占資本はそんなに愚かな存在ではない。独占資本は、その全重みをかけて、「民主的改革」なるものに抵抗するだろう。とりわけ、日本独占資本の支配を決定的に支えているアメリカ帝国主義の対日支配の継続のために全力を尽くすだろう。かつての日本共産党は、アメリカ帝国主義による支配と日本独占資本による支配との不可分性を明確に自覚しており、日本の真の独立のためには日本独占資本の主要企業の国有化が必要であるとみなしていた。しかし、綱領改定案においては、民主主義的課題と社会主義的課題とが截然と分離されただけでなく、日本独占資本の支配とアメリカ帝国主義の支配も相互に分離されてしまった。
そのおかげで、綱領改定案は、あたかもアメリカ帝国主義の支配の打破がただアメリカ政府との関係だけで解決できるかのように、それと同時に、日本独占資本が「次の段階」における自らの私的所有の廃止を知りながらおとなしく共産党政権の「民主的規制」に服すかのように、社会発展の展望を提示しているのである。
民主主義的課題と社会主義的課題との機械的分離論は、敵の出方との関係で空想的であるだけでなく、変革主体たる日本人民との関係でも空想的である。これまでのすべての社会主義革命は、さまざまな民主主義的変革の課題を実現する過程の一環として実現された。それは単に、経済の遅れた後進諸国で社会主義革命が起こったという事情によるだけではない。そこには、社会革命そのものの歴史的法則性がはっきりと示されている。
革命というものは、労働者階級を中心とする人民全体の巨大な破壊的・創造的エネルギーの爆発によってのみ可能となる。だが、そのような巨大な変革エネルギーの発揮がどうして可能になるのだろうか? 民主主義的課題をことごとくやり遂げた国民が「次の発展段階は社会主義的変革だ」ということを理解して、次の段階に進むのだろうか。いやそんなことはありえない。綱領改定案が言うように、民主主義革命ですでに日本国民が「真の主権を回復するとともに、国内的にも、はじめて国の主人公となる」としたら、そして「日本国民の活力を生かした政治的・経済的・文化的な新しい発展の道がひらかれる」のだとしたら、どうしてわざわざ次の段階に進まなければならないのか? 現実の民衆というものは、教科書のレッスン1が終わったから自動的にレッスン2に進むような優等生的存在ではない※。
※注 不破は、綱領改定案に関する報告の中で、次のように述べている。
「わが党の当面の任務は民主主義革命ですが、その段階でも、日本共産党が将来の目標としている社会主義・共産主義の社会について、的確な理解を多くの国民のあいだに広めることは、党の前進の上でも、また、民主主義革命の課題に取り組む国民的な力を発展させる上でも、さらには、未来社会像を材料にした各種の反共宣伝を打ち破る上でも、重要であります」。
このように、社会主義革命の準備の問題は完全に宣伝・啓蒙といったレベルで設定されている。また、別のところでは不破は、民主的改革をやり遂げた国民が、それだけでは不十分であることを理解して、社会主義的変革の段階に進むだろうという展望を述べている。2001年の党学校で行なわれた講義で不破は次のように述べている。
「私たち自身は、利潤第一主義の害悪が、民主的改革だけでは完全になくならないことを、理解しています。しかし、この理解が、国の主人公である国民多数の理解になるということは、実際に、民主的改革を国民の合意で実行して、積極面も足りない面もふくめて、それが現実の国民的経験になったときにはじめて可能になることだと考えています。その段階で、『なるほど、利潤第一主義の害悪は、もっと前にすすまなければ解決できないのだな』という認識と自覚が、国民多数のものになり、それに応じて、改革の次の一歩の前進が問題になる」(『日本共産党綱領を学ぶ』、新日本出版社、191頁)。
ここでも国民は、レッスン1を実践し終わり、それだけでは不十分であることを知ってレッスン2に進む存在として描かれている。その間、独占資本は手をこまねいて、その「実地学習」の過程を眺めているというわけだ。
基本的な生産手段の所有関係を変革するような国民的エネルギーが発揮されるのは、その課題が言葉の真の意味で「全人民的な」切実さを帯びた場合のみである。だが、どういう場合にそのような「全人民的切実さ」を帯びるのか? それは、資本主義システムの中で、基本的な民主主義的要求さえ否定ないし極端に縮小され、生活がいちじるしく悪化し、最低限の民族的誇りさえ蹂躙され、平和のうちに生きる権利さえ脅かされるような場合である。人々は、直接的には、民主主義・生活・民族的尊厳・平和といった基本的な諸要求を実現するために立ち上がる。先進的な一部の者はすでにこうした諸要求の実現が資本主義システムの転覆と結びついていることを自覚しているが、圧倒的多数はそうではなく、そうした基本的要求の実現だけを目的としている。しかし、そうした要求の実現をめざす中で、人々は、資本主義的私的所有を擁護する勢力そのものと衝突する。なぜなら、資本主義的私的所有の担い手自身が何よりもそうした社会状況を生み出した張本人だからである。こうして、直接的には民主主義的変革の運動であったものが、その目的を実現する過程で必然的に資本主義の枠を突破して社会主義的な性格を帯びざるをえなくなる。
つまり、労働者階級を中心とする人民大衆は、社会主義革命において、民主主義的変革エネルギーを一種の破城槌としてはじめて、資本主義的生産関係の壁を打ち破ることができるのである。つまり、資本主義というシステムは、それが高度に発達していようと遅れていようと、究極的には民主主義や生活向上といった圧倒的多数の人民の基本的諸要求を満たすことができないからこそ、社会主義に取って代わらなければならないのである。逆に言えば、資本主義の枠内で、そうした基本的要求が満たされているかぎり、けっしてそれを踏み越えていこうとする民衆の全国民的エネルギーは発揮されないのである。それゆえ、これまで社会主義革命が起こったすべての国では、民主主義的変革から社会主義革命への連続革命として、あるいは両者の重なり合う複合的革命としてそれは成功したのである。
この法則性は先進資本主義国においても、必要な変更を加えれば基本的にあてはまる。ほとんどの先進資本主義国では民主主義革命という独自の段階を設定する必要はないだろうが、それにもかかわらず、そこでの社会主義革命は、「社会発展の次の段階は社会主義的変革です」などという教科書的知識にもとづいて起こるのではなく、発達した資本主義システムの中で最低限の生活上、民主主義上の諸要求が掘り崩され、破壊される中で、そうした初歩的な民主主義的・生活的諸要求を実現する運動の過程で達成されるのである。すでにヨーロッパ諸国では、綱領改定案が「民主的改革」のモデルとみなしている福祉国家的到達点が次々と掘り崩され、縮小されていっている。それは今後、帝国主義的グローバリゼーションの中でますます掘り崩されていくだろう。ヨーロッパ諸国の労働者人民は、資本主義の枠内ではもはや最低限の民主主義上、生活上の諸要求さえ実現できないことを、実生活上の経験から知ることを余儀なくされるだろう。
かつてわが党は、民主主義的変革と社会主義革命との関連についておおむね以上のような認識に立っていた。もともと、61年綱領における二段階連続革命論は、社会主義革命に進む上での最大の障害物であるアメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を民主主義的変革のエネルギーを結集することで打ち破り、そうすることによってはじめて最短の道を通って社会主義に進むことができるのだという立場であった。たとえば、第7回党大会報告において宮本顕治書記長(当時)は次のように述べている。
「国有化一般は必ずしもただちに社会主義を意味しない。ブルジョア独裁下の国有化、あるいは独占資本のイニシァチブのもとにおける国有化は、資本主義的性格のものであり、独占資本を強めるにすぎない。国有化を社会主義的性格のものにするかどうかは、プロレタリアートの独裁による権力の確立を前提とする。いかにして社会主義にすすむかという場合に重要なことは、農業や中小企業の資本主義的生産関係はそのままにしながら、まずアメリカ帝国主義の支配と売国的独占資本に反対するこれらの階層を労働者階級の側にひきつけ、かれらの反米、反独占のエネルギーを民族民主統一戦線に結集し、アメリカ帝国主義の駆逐、売国的独占資本の権力の打倒にむけ、この闘争とこの要求の達成をつうじ、人民連合独裁を樹立することである。そして、その連合独裁のなかにおける労働者階級の指導性を確立し強めることによって、プロレタリア独裁に発展させることである。こうしてはじめて国有企業をテコとして、農業および中小企業の全国的な社会主義改造にすすむことができる。このような段階をとおって社会主義へすすむ道がもっとも確実である。この場合、重要産業の独占企業の国有化は社会主義への過渡的契機をふくんでいるが、人民連合独裁がはっきりプロレタリア独裁に発展転化するに応じて社会主義的部分となることができるのである」(強調は引用者)。
このように、あくまでも中心的目標は社会主義革命であり、それを実現するための法則的かつ最短の道としてアメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打ち破る民主主義革命が想定されていた。そして、民主主義革命の主要課題が部分的に社会主義的課題と重なっていることが自覚されていた。しかし、その後、しだいに両革命の有機的かつ不可分の関連性が見失われ、ますます両革命が概念的にも時間的にも分離されていき、ついには、今回の綱領改定案で完全に切り離されてしまった。そのために、社会主義革命は、「社会発展の次の段階」として教科書的に設定されるにいたったのである。そしてこれが、「科学の目」と呼ばれているのである!